1999年7月上旬。吹利市のとあるハンバーガーショップ。
梅雨の最中だというのに、その日は真夏の暑さだった。
里見鏡介はハンバーガーショップの二階、階下でオーダーした食事を食べるためのスペースに居た。二人用のテーブルには食べかけのハンバーガーセットの残りを載せたトレイがあった。
程よく冷房されたそこには、何も注文しなくてもしばらく居座りたくなりそうな居心地のよさがあった。だから、予備校帰りの彼がそこで涼んでいたとしても、それは何の不思議もない事だった。
不意に後ろから声が掛けられたような気がして、彼は振り向いた。
近くの公立高校の夏の制服を着た小柄な少女が、テーブル一つ分だけ向こうに立ってこちらを見ていた。学校帰りらしく、手には空になったトレイと小さな鞄があった。
確か、セットをオーダーする時に後ろに並んでいた娘だった。小柄な体つきと、染めるのに失敗したような赤茶けた髪の色、そして野暮ったい眼鏡に見覚えがあった。
気だるかった。話が噛み合っていなかったが、敢えて噛み合わせようとも思わなかった。
向こうが、勝手に話し掛けて来たのだ。噛み合わないのが厭なら、会話を止めればいいのだ、と鏡介は思っていた。
言っているうちにだるさが増した。彼はだらしなく椅子にもたれかかった。
相手のずれたような受け答えが、だるさを増幅したようだった。
あるかなしかの皮肉を込めた言い回しのつもりだったが、相手ははにかんだような笑顔を浮かべて彼に近づいた。
それはなにかを連想させた。どういうわけか、第六感の端がつつかれたような気がして、鏡介は暫くこの少女と話をする気になった。
まるで職務質問のような言い回しだったが、奈津と名乗った少女は律義に答えを返した。
あまり言いたくない事に触れたようだった。それでも、懸命にどうにか言おうとして、それが出来ずに彼女の声は小さくなった。
鏡介はテーブルに視線を投げ、セットに付いていたフライドポテトの袋を見た。食欲が湧かずにそのまま残しておいたものだった。
彼は、それを無造作に奈津の手に押し付けた。
鏡介は仏頂面で頷いた。冷め始めたポテトを食べる気は元々なかった。
同時に、これで話は終わりだという意志表示のつもりでもあった。
そんなものを渡されて怒るかと思ったのに、奈津は逆に俯いて赤くなった。
……新鮮な反応だ、と鏡介は思った。もう少し喋ってやってもいいかも知れない、と考えを変える。
奈津は左手首にはめた時計をちらりと見、慌てたように鞄を持ち直した。
駆け出そうとして、奈津はテーブルの脚に躓いた。咄嗟に片手で支えると、体の大きさに似つかわしい体重が鏡介の腕にかかった。
奈津は顔をトマトか何かのように真っ赤に染めた。
手を放してやると、彼女は胸に手を当てて一つ息を吐き、右手でずり落ちかけた眼鏡を直した。
手を振りかけて、ふと思い直して彼はポケットから自作の名刺のようなものを取り出した。
奈津は不思議そうな表情でそれを眺めた。ややあって、彼女は慌てたようにマスコットの絵柄の付いた紙片を取り出し、そこにあまり上手ではない字で何事かを書き付けた。名刺を渡されたので、自分も同じことをしなくてはいけないような気分になったらしい。
鏡介は苦笑のようなものを浮かべた。
何度も振り返りながら走っていく少女を、鏡介はぼんやり眺めた。
まただるさが襲ってくる。
暫く、彼はそのままの姿勢で目を閉じていた。
そのまま、彼はうとうととしていたらしい。ショップの店員がやってきて、落としものされてますよ、と言ったところで漸く意識がはっきりした。
店員は足元からエンジ色の小さな手帳を拾い上げ、鏡介に示した。
やはりそうだったか、と鏡介は頷いた。
外を見ると、もう日がかげっていた。
鏡介はトレイの上のごみをダストシュートに放り込むと、その足で店を出、近くの電話ボックスに入った。
携帯の番号らしい11桁の番号をダイヤルすると、2回と待たずに相手が出た。
先程聞いた声だった。わざと受話器を近くにして喋っていたが、声の調子を押さえているのは聞き取れた。
電話の向こうの声が見事に上擦った。どうやらこちらのことをすっかり失念していたらしい。
この時間に授業というのが僅かに気にはなったが、部活と言い直したものをわざわざ問い詰める気は鏡介にはなかった。
電話の向こうで暫く逡巡するような間があった。やがて、ひどく切迫したような声が伝わって来た。
翌日、奈津に言われた通りに鏡介はハンバーガーショップに足を運んだ。
やや、昨日よりは早い時間のようだった。
店内に奈津の姿は見当たらなかった。彼は注文したセットをある程度だけ食べ、店員に追い出されないように残りをそのままにして彼女を待った。
ほぼ昨日の通りの時刻に奈津は現れた。
滑稽なほど取り乱して、鞄を両手で差し上げるようにして持ちながら、彼女は鏡介の方にどたどたと駆け寄ってきた。あちこちにぶつかって、今にもすてんと転がりそうな案配だった。
奈津はテーブルの脇に立ったまま、ぺこぺこと何回も頭を下げた。
ある種のゲームの中でなら、ひどく愛らしい仕草であるのだろうが、ゲームに出てくる女性たちほど見栄えの良くない彼女がしても、それはひどく野暮ったい仕草でしかなかった。
どう勘違いしたのか、奈津は半泣きのような表情になって、テーブルの脇で立ったまま、ごめんなさいを繰り返した。
鏡介はその目の前に無雑作に生徒手帳を突き出した。
奈津は哀れなほど狼狽した。
奈津ははっとして、今度はばつの悪そうな顔つきになった。
夜学に通っているのを余り知られたくないのかも知れなかった。
奈津は行きかけて、立ち止まって振り返った。
その途端にだるさが鏡介を襲った。
鏡介は気だるさを何処かで楽しみつつ、彼女の方向に視線を向けた。
歯切れの悪い台詞だった。間の取りかたも巧くはなかった。
が、その言葉は鏡介を現実に引き戻した。
顔が明るくなる、というのは比喩的表現でしかないが、その時の奈津の表情の変化を表すのには適切な言葉だった。
後になってから、鏡介は、時折、どこか痛いような感覚とともにその表情の変化を思い出すことがあった。
奈津は二、三歩行ってから振り返った。収まりの良くない赤茶けた髪が揺れ、美人でないなりに華いだ笑顔がこちらを向いた。
そのまま、来た時よりは幾分かましな走りかたで、彼女は店を出て行った。
再び心地好い気だるさが襲ってくる。
ふと、そんなことが頭を過った。
土曜日の晩、待ち合わせ場所に現れた鏡介を見た奈津は、開口一番そう尋ねてきた。
彼女と別れてから、気だるい気分のまま歩いていた鏡介は何処かに頭をぶつけて派手に血を流してしまったのだが、本人もその辺りの経緯については今一つ判然としていなかった。曖昧に、転んで少し切ったらしいとだけ答えると、奈津は胸をなで下ろした。
あまりにありきたりな返事に、鏡介は思わず笑ってしまった。
奈津が不思議そうな視線を向けてきた。彼は少し彼女をからかいたい気分になった。
サワーが何なのかも知らない様子で、彼女は頷いた。
奈津の体重が急に背中にかかった。何もなさそうな所なのに、転んでしまったようだった。
鏡介は後ろに視線をやりつつ微笑んだ。
確かに、立っても胸の辺りにしか頭がこない彼女と自分とでは、歩幅が違うかもしれなかった。鏡介は奈津の横に立って、狭い彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩き始めた。
何故か、気だるさがすっと襲ってきた。
土曜七時の飲み屋となれば、どこもそれなりに混んでいた。そんな中で、二人は何とか席を確保し、メニューを眺めた。
気だるさは消えていた。奈津を見遣ると、彼女はメニューから顔を上げて彼をおずおずと見た。
高校生ならこういう場所は別に初めてというわけでもないだろうに、と鏡介は訝しく思った。
写真入りのメニューの「カクテル」の部分の一つを奈津は指で押さえた。
なんだ、結局アルコール入りを選ぶんじゃないか、と、鏡介はなにげなくそう答え、料理を適当に注文した。
串や煮物が並んだ辺りで、鏡介は奈津の顔が真っ赤になっているのに気が付いた。
中ジョッキほどの大きなグラスにレモンとセロリを添えて出されたウォッカのカクテルを、喉が乾いていたのか、彼女はストローで半分以上干してしまっていた。
まさか本当に知らずに飲んだのか、と鏡介は漸く気が付いた。
奈津はなにやら不明瞭な発音でもごもごと喋ると、残りを一気に吸上げてしまった。
苦笑しながらそう言った鏡介の声も、聞こえているのかどうか判らなかった。
据わってしまった目が、うす茶色の眼鏡の奥からとろんとこちらを見ていた。
世慣れしていない感じだとは思っていたが、此処までとは想像もしなかった。参ったな、と鏡介が思っていると、奈津がやや顔を近づけて、彼の瞳を見返してきた。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけきらりと輝いた。
獲物に襲いかかる肉食獣のすばやさで、奈津は彼の首に抱きついてきた。周囲の客から冷やかしが飛んだ。
首筋がちくりとした。あわてて手を触れると、人の犬歯というには鋭すぎる二本の歯が、彼の指を掠めた。
鏡介は努めてさりげなく、彼女の肩に手を回して引き離した。
事情は理解できなかったが、ここではさわぎを起こしたくなかった。
奈津が不意にはっきりした声を上げたので、鏡介はまじまじと彼女の顔を見た。眼鏡が鼻までずり落ちて、瞳の色がはっきりとわかった。
それは金色に輝いていた。
いつもの気だるさとは異質な、強制力を持った痺れのようなものが、彼の脳を捉えた。それが何かを確認する間もなく、彼は奈津に首筋を噛まれていた。
血を吸われていくのが感覚的に判る。
痺れた感覚の中で、奈津は吸血鬼だったのかというぼんやりした思考が回っていた。
それは僅か数秒の間だったに違いない。奈津は口を離し、彼の右肩に顔を埋めた。同時に、鏡介の痺れは嘘のように引いた。
大した量を吸われたわけではないようだった。失血で気を失うようなことはないだろう、と思えた。
声を掛けると、奈津はふらりと彼から離れた。
こちらを、眼鏡の下からぼんやり見返している瞳は、また鋭さを失っていた。
倒れそうな奈津の肩を抱えて、鏡介は勘定を済ませて外に出た。少々足下がふらついた。血を失ったせいかもしれなかった。
路地に出て、鏡介は奈津の顔を覗き込んだ。
奈津は目を閉じ、何もなかったかのように安らかな息を立てていた。
考えをはっきりさせるために口に出してみた。そうしないと、状況が巧く整理できそうになかった。カラオケボックスが、距離やら何やらで一番無難そうに思えた。
彼は高校生にしては小柄な少女を横抱きに抱え上げて、近くのカラオケボックスに向かった。翌朝までのコースで部屋を借り、とりあえずソファーに奈津を寝かしつけると、彼にも急激に睡魔が忍んできた。
翌朝、鏡介はひどく取り乱した様子の奈津に、血を吸われたこと以外の経緯を掻い摘んで説明した。
奈津は白木屋でカクテルを飲んだ辺りから記憶が欠落しているようだった。
彼女の正体に興味はあったものの、鏡介は強いてそれを尋ねる気にはならなかった。所詮、一度飲みに誘っただけの仲だった。もう会わないかもしれないし、町で出会えば挨拶くらいはするかも知れない。それだけのことだった。
世話を掛けたと言ってコメツキバッタのように頭を下げる、ひどく野暮ったい雰囲気の少女に、彼は楽しかったよと手を振って別れた。
日差しが気になって空を見上げると、初夏の太陽はもうほとんど昼を示していた。
不意にまた気だるさが襲ってきた。
それが昨晩の失血によるものなのか、いつもやってくる原因不明の物なのかは、彼には判らなかった。ただ、彼はその感覚を好きになり始めていた。
気だるい感覚の中に、町が、人が、自分が溶けて行くようだった。
全ては夏のせいだ、と彼は思った。案外、それが正しいようにも思えた。
鏡介の、ある少女との出会いを鏡介の視点で描く。