エピソード1024『夕暮れの彼女』


目次


エピソード1024『夕暮れの彼女』

登場人物

里見鏡介(さとみ・きょうすけ) : 退魔(死霊)術師。遠野勇那(とおの・ゆうな)と暮している。 : 風見アパートの住人。美術系の予備校に通っている。
津村奈津(つむら・なつ) : 吸血鬼のクォーター。 : 昼間に弱い体質の為、夕方から授業のある定時制高校に通っている。

時期と場所

1999年7月上旬。吹利市のとあるハンバーガーショップ。

ハンバーガーショップにて

梅雨の最中だというのに、その日は真夏の暑さだった。
 里見鏡介はハンバーガーショップの二階、階下でオーダーした食事を食べるためのスペースに居た。二人用のテーブルには食べかけのハンバーガーセットの残りを載せたトレイがあった。
 程よく冷房されたそこには、何も注文しなくてもしばらく居座りたくなりそうな居心地のよさがあった。だから、予備校帰りの彼がそこで涼んでいたとしても、それは何の不思議もない事だった。
 不意に後ろから声が掛けられたような気がして、彼は振り向いた。
 近くの公立高校の夏の制服を着た小柄な少女が、テーブル一つ分だけ向こうに立ってこちらを見ていた。学校帰りらしく、手には空になったトレイと小さな鞄があった。
 確か、セットをオーダーする時に後ろに並んでいた娘だった。小柄な体つきと、染めるのに失敗したような赤茶けた髪の色、そして野暮ったい眼鏡に見覚えがあった。

鏡介
「……ああ、こんにちは」
「ボーッとしてらっしゃって、大丈夫ですか? こんないい日和なのに……」
鏡介
「……うん、天気がいいしね。外は暑いし」

気だるかった。話が噛み合っていなかったが、敢えて噛み合わせようとも思わなかった。
 向こうが、勝手に話し掛けて来たのだ。噛み合わないのが厭なら、会話を止めればいいのだ、と鏡介は思っていた。

鏡介
「太陽が苦手なんだ」
「……そうですか、まだ暑いんですね、外」
鏡介
「予備校から此処が近いからね、家まで帰るのも暑いし」

言っているうちにだるさが増した。彼はだらしなく椅子にもたれかかった。
 相手のずれたような受け答えが、だるさを増幅したようだった。

鏡介
「外は暑いけど此処は冷房が効いていて、まるで夏を感じない……ところで、先程から僕と話している君は誰だい」
奈津
「津村奈津って言います。……あなたは?」

あるかなしかの皮肉を込めた言い回しのつもりだったが、相手ははにかんだような笑顔を浮かべて彼に近づいた。
 それはなにかを連想させた。どういうわけか、第六感の端がつつかれたような気がして、鏡介は暫くこの少女と話をする気になった。

鏡介
「里見鏡介、いわゆる浪人生。君は?」
奈津
「あ、えーと……こ、高校生です」
鏡介
「制服か……懐かしい。ずっとこの吹利の街に?」
奈津
「え、……えーと、ここじゃないんですぅ」

まるで職務質問のような言い回しだったが、奈津と名乗った少女は律義に答えを返した。

奈津
「で、電車で通ってて……えと、その」

あまり言いたくない事に触れたようだった。それでも、懸命にどうにか言おうとして、それが出来ずに彼女の声は小さくなった。
 鏡介はテーブルに視線を投げ、セットに付いていたフライドポテトの袋を見た。食欲が湧かずにそのまま残しておいたものだった。
 彼は、それを無造作に奈津の手に押し付けた。

鏡介
「いいよ、無理に話さなくても。これあげるよ、余ったから」
奈津
「あ、え、えと、その……いいんですか?」

鏡介は仏頂面で頷いた。冷め始めたポテトを食べる気は元々なかった。
 同時に、これで話は終わりだという意志表示のつもりでもあった。

奈津
「あ、ありがとうございますぅ」

そんなものを渡されて怒るかと思ったのに、奈津は逆に俯いて赤くなった。
 ……新鮮な反応だ、と鏡介は思った。もう少し喋ってやってもいいかも知れない、と考えを変える。

鏡介
「学校帰りみたいだけど、暇なのか?」
奈津
「え? 学校……い、いけない、もういかなくっちゃ」
鏡介
「行く? 部活かなにかか」
奈津
「ええとそのぉ、そ、そうです、部活です」

奈津は左手首にはめた時計をちらりと見、慌てたように鞄を持ち直した。

奈津
「あ、ありがとうございましたっ……あ」

駆け出そうとして、奈津はテーブルの脚に躓いた。咄嗟に片手で支えると、体の大きさに似つかわしい体重が鏡介の腕にかかった。
 奈津は顔をトマトか何かのように真っ赤に染めた。

奈津
「あ、あああありがとうございます……」
鏡介
「……気を付けてね」
奈津
「は、はいですぅ」

手を放してやると、彼女は胸に手を当てて一つ息を吐き、右手でずり落ちかけた眼鏡を直した。

鏡介
「それじゃ」

手を振りかけて、ふと思い直して彼はポケットから自作の名刺のようなものを取り出した。
 奈津は不思議そうな表情でそれを眺めた。ややあって、彼女は慌てたようにマスコットの絵柄の付いた紙片を取り出し、そこにあまり上手ではない字で何事かを書き付けた。名刺を渡されたので、自分も同じことをしなくてはいけないような気分になったらしい。

奈津
「は、はいっ! これ、私の住所と電話番号ですっ!」
鏡介
「あ、ああ、ありがとう。それじゃあまた」

鏡介は苦笑のようなものを浮かべた。

鏡介
「いってらっしゃい」
奈津
「ポテト、おいしかったですぅ! ありがとうございましたぁ!!」

何度も振り返りながら走っていく少女を、鏡介はぼんやり眺めた。
 まただるさが襲ってくる。
 暫く、彼はそのままの姿勢で目を閉じていた。

落とし物

そのまま、彼はうとうととしていたらしい。ショップの店員がやってきて、落としものされてますよ、と言ったところで漸く意識がはっきりした。

鏡介
「……?」
店員
「……違うかな。高校の生徒手帳だ」

店員は足元からエンジ色の小さな手帳を拾い上げ、鏡介に示した。

店員
「……お客さんのですか?」
鏡介
「……ああ、多分、さっき会ってた友達のだ」
店員
「つむら・なつ って書いてありますね、名前」

やはりそうだったか、と鏡介は頷いた。

鏡介
「届けておくよ」
店員
「じゃ、お願いします」

外を見ると、もう日がかげっていた。
 鏡介はトレイの上のごみをダストシュートに放り込むと、その足で店を出、近くの電話ボックスに入った。
 携帯の番号らしい11桁の番号をダイヤルすると、2回と待たずに相手が出た。

奈津
「……もしもし?」

先程聞いた声だった。わざと受話器を近くにして喋っていたが、声の調子を押さえているのは聞き取れた。

奈津
「授業中に電話かけちゃ駄目だって言ったでしょ、カナ」
鏡介
「さっきハンバーガーショップであった里見だよ、手帳を預かってる」
奈津
「そんな声色つかったって……」
鏡介
「……わからないかな」
奈津
「ええっ! す、すみませぇ〜〜んっ!」

電話の向こうの声が見事に上擦った。どうやらこちらのことをすっかり失念していたらしい。

奈津
「あ、あのでも、今ちょっとその……部活で……」
鏡介
「部活なんだね……それじゃかけ直すよ」

この時間に授業というのが僅かに気にはなったが、部活と言い直したものをわざわざ問い詰める気は鏡介にはなかった。
 電話の向こうで暫く逡巡するような間があった。やがて、ひどく切迫したような声が伝わって来た。

奈津
「あ、明日、またあの時間にあのお店に来てください。いますから、あたしっ」
鏡介
「わかった、それじゃあね」

お返し

鏡介
「……早く来すぎたかな」

翌日、奈津に言われた通りに鏡介はハンバーガーショップに足を運んだ。
 やや、昨日よりは早い時間のようだった。
 店内に奈津の姿は見当たらなかった。彼は注文したセットをある程度だけ食べ、店員に追い出されないように残りをそのままにして彼女を待った。
 ほぼ昨日の通りの時刻に奈津は現れた。
 滑稽なほど取り乱して、鞄を両手で差し上げるようにして持ちながら、彼女は鏡介の方にどたどたと駆け寄ってきた。あちこちにぶつかって、今にもすてんと転がりそうな案配だった。

奈津
「さ、さとみさんっ、お、遅くなりましたぁっ」
鏡介
「ああ、こんにちわ。時間とか決めてなかったからね」
奈津
「いっ、いえっ、わたし、待ってるって言ったのに、先にさとみさんがきてて、あの、その……ごめんなさいっ」

奈津はテーブルの脇に立ったまま、ぺこぺこと何回も頭を下げた。
 ある種のゲームの中でなら、ひどく愛らしい仕草であるのだろうが、ゲームに出てくる女性たちほど見栄えの良くない彼女がしても、それはひどく野暮ったい仕草でしかなかった。

奈津
「あ、生徒手帳、ありがとうございましたぁっ。わたし、ぜんぜんきづかなくて、学校で、携帯がなったから妹だと思って、あの、その……」
鏡介
「……大丈夫、そんなことで怒るほどヒステリックな人間じゃないつもりだよ(微笑)」
奈津
「や、やっぱり、怒ってたんですか(べそ)」

どう勘違いしたのか、奈津は半泣きのような表情になって、テーブルの脇で立ったまま、ごめんなさいを繰り返した。
 鏡介はその目の前に無雑作に生徒手帳を突き出した。

鏡介
「落ちてたよ、じゃあせっかくだから今日は付き合って貰おうかな」
奈津
「あ、ありがとうございます………え?」
鏡介
「とりあえずコレをさっさと平らげて、カラオケにでも行こうか」
奈津
「え……」

奈津は哀れなほど狼狽した。

奈津
「ご、ごめんなさいっ! あたし、これから学校なんです」
鏡介
「……ああ、『部活』か。じゃあカラオケはまたの機会にしよう、いってらっしゃい」

奈津ははっとして、今度はばつの悪そうな顔つきになった。
 夜学に通っているのを余り知られたくないのかも知れなかった。

奈津
「は、はい……。『部活』に、いってきます……」

奈津は行きかけて、立ち止まって振り返った。
 その途端にだるさが鏡介を襲った。

奈津
「本当に、ありがとうございました……」

鏡介は気だるさを何処かで楽しみつつ、彼女の方向に視線を向けた。

奈津
「あ、あのぅ……」
鏡介
「……?」
奈津
「土曜日でしたら……その……空いてますから……また」

歯切れの悪い台詞だった。間の取りかたも巧くはなかった。
 が、その言葉は鏡介を現実に引き戻した。

奈津
「午後7時くらいに、ここで……いいですか?」
鏡介
「わかった、土曜の七時だね、どこか面白そうなところ考えておくよ」
奈津
「あ、ありがとうございますぅ!」

顔が明るくなる、というのは比喩的表現でしかないが、その時の奈津の表情の変化を表すのには適切な言葉だった。
 後になってから、鏡介は、時折、どこか痛いような感覚とともにその表情の変化を思い出すことがあった。

奈津
「それじゃ、いってきます、さとみさん」
鏡介
「いってらっしゃい、つむらさん」

奈津は二、三歩行ってから振り返った。収まりの良くない赤茶けた髪が揺れ、美人でないなりに華いだ笑顔がこちらを向いた。

奈津
「……はいっ!」

そのまま、来た時よりは幾分かましな走りかたで、彼女は店を出て行った。
 再び心地好い気だるさが襲ってくる。

鏡介
「(夕暮れの彼女、夜の到来とともに消ゆる……か)」

ふと、そんなことが頭を過った。

土曜日の夜

奈津
「さ、さとみ……さん? ど、どどどうしたんですかぁ? その包帯……」

土曜日の晩、待ち合わせ場所に現れた鏡介を見た奈津は、開口一番そう尋ねてきた。
 彼女と別れてから、気だるい気分のまま歩いていた鏡介は何処かに頭をぶつけて派手に血を流してしまったのだが、本人もその辺りの経緯については今一つ判然としていなかった。曖昧に、転んで少し切ったらしいとだけ答えると、奈津は胸をなで下ろした。

鏡介
「それじゃ、白木屋で少し飲もうか、その後はまた考えよ う」
奈津
「え、……あ、その、わたし、お酒は……」
鏡介
「うん、実は僕も弱い(笑) だから少しね、主に食べよう」
奈津
「あ、あのでも、まだわたし、未成年で……」

あまりにありきたりな返事に、鏡介は思わず笑ってしまった。
 奈津が不思議そうな視線を向けてきた。彼は少し彼女をからかいたい気分になった。

鏡介
「……サワーとかならお酒にならないから大丈夫なんだよ」
奈津
「そうなんですか」

サワーが何なのかも知らない様子で、彼女は頷いた。

鏡介
「行こう、そろそろ混み始める時間だ」
奈津
「あ、まってくだ…きゃっ」

奈津の体重が急に背中にかかった。何もなさそうな所なのに、転んでしまったようだった。
 鏡介は後ろに視線をやりつつ微笑んだ。

鏡介
「……よく転ぶな、君は」
奈津
「……だって、さとみさん、足早いから……」

確かに、立っても胸の辺りにしか頭がこない彼女と自分とでは、歩幅が違うかもしれなかった。鏡介は奈津の横に立って、狭い彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩き始めた。

奈津
「ご、ごめんなさい…合わせてもらっちゃって……」
鏡介
「……べつに、そういうわけでもないよ」

何故か、気だるさがすっと襲ってきた。
 土曜七時の飲み屋となれば、どこもそれなりに混んでいた。そんな中で、二人は何とか席を確保し、メニューを眺めた。
 気だるさは消えていた。奈津を見遣ると、彼女はメニューから顔を上げて彼をおずおずと見た。
 高校生ならこういう場所は別に初めてというわけでもないだろうに、と鏡介は訝しく思った。

奈津
「あの……トマトジュースって、ないですか……?」
鏡介
「……ああ、あるよ、それじゃ僕は生中にしようか。食べ物は適当に……」

写真入りのメニューの「カクテル」の部分の一つを奈津は指で押さえた。

奈津
「ぶらっでぃ・まりー? これですか?」
鏡介
「……ああ、トマトジュースっていうとこれになるんじゃないかな」

なんだ、結局アルコール入りを選ぶんじゃないか、と、鏡介はなにげなくそう答え、料理を適当に注文した。
 串や煮物が並んだ辺りで、鏡介は奈津の顔が真っ赤になっているのに気が付いた。

奈津
「これ、なんか変ですぅ」

中ジョッキほどの大きなグラスにレモンとセロリを添えて出されたウォッカのカクテルを、喉が乾いていたのか、彼女はストローで半分以上干してしまっていた。

奈津
「甘い感じがしてぇ、でもからくれ」
鏡介
「変かな……『部活』、大変そうだね」
奈津
「ぶ? あ、はいれすぅ〜〜」

まさか本当に知らずに飲んだのか、と鏡介は漸く気が付いた。

鏡介
「……大丈夫か?」

奈津はなにやら不明瞭な発音でもごもごと喋ると、残りを一気に吸上げてしまった。

鏡介
「……まあ適当に食べながら飲んだ方がいいと思うよ、『部活』ってなんなんだい?」

苦笑しながらそう言った鏡介の声も、聞こえているのかどうか判らなかった。
 据わってしまった目が、うす茶色の眼鏡の奥からとろんとこちらを見ていた。
 世慣れしていない感じだとは思っていたが、此処までとは想像もしなかった。参ったな、と鏡介が思っていると、奈津がやや顔を近づけて、彼の瞳を見返してきた。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけきらりと輝いた。

奈津
「さとみさん……」
鏡介
「……なんだい?」

獲物に襲いかかる肉食獣のすばやさで、奈津は彼の首に抱きついてきた。周囲の客から冷やかしが飛んだ。

奈津
「おいしそうなひと……」
鏡介
「……そいつはどうも、ッテ本当に大丈夫かい?」

首筋がちくりとした。あわてて手を触れると、人の犬歯というには鋭すぎる二本の歯が、彼の指を掠めた。
 鏡介は努めてさりげなく、彼女の肩に手を回して引き離した。
 事情は理解できなかったが、ここではさわぎを起こしたくなかった。

鏡介
「……さてと、いったん外に出よう」
奈津
「あっ」
鏡介
「……?」

奈津が不意にはっきりした声を上げたので、鏡介はまじまじと彼女の顔を見た。眼鏡が鼻までずり落ちて、瞳の色がはっきりとわかった。
 それは金色に輝いていた。
 いつもの気だるさとは異質な、強制力を持った痺れのようなものが、彼の脳を捉えた。それが何かを確認する間もなく、彼は奈津に首筋を噛まれていた。
 血を吸われていくのが感覚的に判る。
 痺れた感覚の中で、奈津は吸血鬼だったのかというぼんやりした思考が回っていた。
 それは僅か数秒の間だったに違いない。奈津は口を離し、彼の右肩に顔を埋めた。同時に、鏡介の痺れは嘘のように引いた。
 大した量を吸われたわけではないようだった。失血で気を失うようなことはないだろう、と思えた。

鏡介
「……さてと、出るよ」

声を掛けると、奈津はふらりと彼から離れた。

奈津
「は、あい……」

こちらを、眼鏡の下からぼんやり見返している瞳は、また鋭さを失っていた。
 
 倒れそうな奈津の肩を抱えて、鏡介は勘定を済ませて外に出た。少々足下がふらついた。血を失ったせいかもしれなかった。

鏡介
「おい」

路地に出て、鏡介は奈津の顔を覗き込んだ。
 奈津は目を閉じ、何もなかったかのように安らかな息を立てていた。

鏡介
「……寝たのか……さて、どうするか」

考えをはっきりさせるために口に出してみた。そうしないと、状況が巧く整理できそうになかった。カラオケボックスが、距離やら何やらで一番無難そうに思えた。
 彼は高校生にしては小柄な少女を横抱きに抱え上げて、近くのカラオケボックスに向かった。翌朝までのコースで部屋を借り、とりあえずソファーに奈津を寝かしつけると、彼にも急激に睡魔が忍んできた。

鏡介
「血を、持って行かれ過ぎたか」

翌朝、鏡介はひどく取り乱した様子の奈津に、血を吸われたこと以外の経緯を掻い摘んで説明した。
 奈津は白木屋でカクテルを飲んだ辺りから記憶が欠落しているようだった。
 
 彼女の正体に興味はあったものの、鏡介は強いてそれを尋ねる気にはならなかった。所詮、一度飲みに誘っただけの仲だった。もう会わないかもしれないし、町で出会えば挨拶くらいはするかも知れない。それだけのことだった。
 
 世話を掛けたと言ってコメツキバッタのように頭を下げる、ひどく野暮ったい雰囲気の少女に、彼は楽しかったよと手を振って別れた。
 
 日差しが気になって空を見上げると、初夏の太陽はもうほとんど昼を示していた。
 不意にまた気だるさが襲ってきた。
 それが昨晩の失血によるものなのか、いつもやってくる原因不明の物なのかは、彼には判らなかった。ただ、彼はその感覚を好きになり始めていた。
 気だるい感覚の中に、町が、人が、自分が溶けて行くようだった。
 
 全ては夏のせいだ、と彼は思った。案外、それが正しいようにも思えた。

解説

鏡介の、ある少女との出会いを鏡介の視点で描く。



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