1999年7月。夕暮れの吹利市。
日も落ちて、夕焼けの残光が西の空の雲をバイオレットに染めていた。
奈津と鏡介は堤防の上を歩いていた。
予備校帰りの鏡介と、学校が休みなのでアルバイトの申込みをしてきたという奈津が偶然顔を合わせただけの話だった。
少し回り道をして帰ろうとする鏡介に、奈津は赤い自転車を引いてついてきた。それほど口が達者な二人ではなかったから、それほど話が弾むわけでもなく、ただ、世間話のようなものを交わしているだけだった。
ふと、奈津が、鏡介さんは「好意の条件」ってなんだと思いますか、と尋ねた。昨日学校で年上の生徒たちがそういう話で盛り上がっていたのだ。
鏡介は首を傾げた。
奈津はしょげた。実は、わからないということで大分からかわれていた。
鏡介の頭の中をちらりと影が掠めた。
勇那のようでもあり、無道千影のようでもあった。
それは自分の心に対する呟きだったが、奈津はそうは取らなかった。
彼女は口を尖らせた。
うす暗い中で、奈津はかすかに誤解した。彼女には、気だるさに浸食された鏡介の笑いが、闊達な時の彼の笑顔に見えていた。
鏡介は奈津の視線に気付いた。
ポケットから、持ち歩いているガムを取り出し、こちらを見上げている小柄な少女の目の前に差し出した。
と言って自分の口にも一枚放り込んだ。
奈津は慌ててそれを受取り、はっとして鏡介の顔を見直した。
たったそれだけのことたったが、彼女にはそれがひどく嬉しいことに思えた。
これまで、男性で自分を自然に呼び捨てで呼んでくれる人はいなかった。
小学校でも中学でも、太陽の光に強くない奈津は、表向きは病弱と言うことで、外に出る授業にろくに参加しなかった。
自然と、彼女は周囲から同情と庇護を受ける存在になった。それは、ある意味では当然の帰結だったが、同時に、周囲に対して常に遠慮の気持ちを持つような気分を彼女に植え付けていた。
表向きは明るく振る舞っていても、いざとなると遠慮が勝って引っ込み思案になってしまう彼女にとっては、幼い恋愛すら遠い存在だった。
鏡介はイメージと現実のの間を彷徨っていた。
ガムを噛むと、その口の中に広がる感触が、彼を僅かに現実側に引き戻すようだった。
月が出ていた。大きな月だった。
梅雨明け前には珍しい、明るい月夜だった。
鏡介のアパートから見る月は、余り良い眺めとまでは行かなかったが、それでも奈津は窓を大きく開けて月を見ていた。
そして、その死者を救済するのが鏡介の使命だった。
彼の思考を知るはずもない奈津は、屈託なく見当違いの言葉を口にした。
ややあって、些細なことを尋ねるにしては臆病すぎる仕草で、彼女は鏡介を見た。
奈津の心に、急に言いようのない寂しさが押し寄せてきた。
とうして、自分は吸血鬼の血なんて引いているのだろう、と思う。
それさえなければ、普通の人と同じはずなのに……
鏡介は元の話に戻った。死体の工作をするには夏は最適ではないかとも思う。夜間じっくり作業した跡を昼間の腐敗かきれいに隠してくれる。
奈津は鏡介の言うことをもうほとんど聞いていなかった。
ただ、涙だけが込み上げてきていた。
死んでしまえば、泣くことは出来なくなるのだ。
奈津は下を向いた。ややあって顔を上げた時には、彼女の頬には涙が流れていた。
鏡介をまた気だるさが襲った。彼は感情の乏しくなった顔で、奈津を眺めた。
奈津には、月明りの逆光で鏡介の表情は見えなかった。
それよりも、その前の言葉が耳に残っていた。
燻っていたものに火が点いたようだった。どうしてこんなに涙が出るのだろうと思うくらい、勢いよく彼女は泣き続けた。
どのくらい経っただろうか。やがて、奈津の泣き声は小さくなり、そのうちに止んだ。彼女は自分の涙でぐしょぐしょになってしまった鏡介の胸から顔を上げた。
気負って言った台詞ではなかった。十五、六くらいまでの時期には、こういう風に情緒が不安定になることがあるものだった。ごく普通の思春期の少女であるように鏡介には思えた。
勇那の苦笑いする顔と千影の顔が過った。
おずおずと、奈津は鏡介に告げた。
ひとにこの話をするのは初めてだった。自分が触れたくないせいもあって、ひたすら、隠し続けてきたのだった。
鏡介は取り敢えず月並な台詞を口に出した。
それよりも、彼としては初めて間直に見る牙の方に興味があった。
彼は片手で奈津の頬からこめかみの辺りを押え、空いている方の手で色の着いた眼鏡を外すと、小さな牙に触れた。
間直に顔を近づけられて、奈津はまた真っ赤になった。
奈津は俯いて口の中でもぞもぞと呟いた。
鏡介が何気なく言ったつもりの言葉が、奈津にはとても優しいもののように思えていた。
鏡介は白く輝いている牙を撫でた。ふと、自分が血の幻想に酔っている事に気が付いたが、彼はその麻薬のような心地好い陶酔感に浸った。
奈津は顔を上げた。金色の瞳が鏡介を見返した。ざらついたような感覚とともに、鏡介は現実に引き戻された。
奈津は腕時計を見た。終電は行ってしまっていた。
鏡介は軽い寝息を立てていた。
声を掛けたが、答えはなかった。
奈津はきょろきょろと辺りを見回し、上に掛けてもよさそうな物を見付けて鏡介に掛けた。
奈津は振り向いた。鏡介は向こうに寝返りを打った。
奈津は一瞬泣き出しそうな顔になった。が、そのまま鏡介の耳元に顔を近づけると、聞き取れるか聞き取れないかの声で囁いた。
そのまま、思い切って頬にキスをし、何か熱い物に触れてしまったかのようにさっと離れると、真っ赤になって戸口までこそこそとさがった。
小さな声で言うと、彼女は慌てたようにドアを開け、アパートの廊下を走って行った。
柔らかい肉の塊がおしつけられた部分を触りながら、鏡介はひとりごちた。
指先にはまだ牙の感触と、なぜか無雑作に触れていた奈津の頬と髪の感触があった。
不意に強烈な気だるさが襲ってきた。時折やってくる頭痛も。
勇那は返事をしなかった。
呆れているのかもしれなかったし、何処かに出掛けているのかもしれなかった。
気だるさが去ったら、使命を果たしに行こう、と鏡介は思った。
こういう月の美しい日は、果たすべき使命も多いはずだった。
鏡介の日常に入り込んだ小さな出来事。