1999年8月下旬から9月半ばにかけて。
ある日の夕暮れ。
近くの中学の制服を着た少女と、その知り合いらしい、大きな長物を担いだ高校生らしい少女が、何やら声高に話し込んでいた。
竜胆が脇を通ると、少女のうち年嵩の方が愛想よく挨拶をしてきた。無道邸の近くに住んでいる、元気の良い娘だった。
竜胆はにこにこと挨拶を返して、角を曲がろうとした。
と、その足が止まる。向こうの角でぽつねんと立ち尽くしている奈津に気が付いたからだ。
竜胆は声をかけて奈津に歩み寄った。
奈津ははっと顔を上げて、竜胆にぺこりとお辞儀をした。
竜胆はさっき挨拶をした少女が居た方を見た。
年下の方の少女は帰ったのか、年嵩の方だけがこちらを怪訝そうに見ていた。
前野くんみたいな子だったら、女の子には好かれて当然だろうな、と竜胆は頷いた。
竜胆は頷いた。
奈津は激しく首を横に振った。
奈津は耐え切れないように声を詰まらせた。
竜胆は奈津の少し癖の付いた髪の毛を撫でた。
竜胆はそっと奈津を抱きしめた。
言いながら、竜胆は胸に痛みを覚えて思わず奈津をきゅっと強く抱いた。
どうしても自分の身に重ねてしまう。同じ……吸血鬼だからかもしれない。
竜胆は心の中で呟いた。無論、口に出したところで奈津には判らないことだった。
奈津はもちろん、竜胆を知る人物の中で、竜胆の過去を深く知る者は少ない。
まだ目の端に涙は浮かべていたが、それでも奈津はなんとか泣くのを堪えていた。
優しい言葉では却って泣かせてしまうのか、と竜胆は焦った。
奈津はすみませんというような言葉を口の中で呟き、ぺこりと頭を下げて小走りに去っていった。
その日、竜胆はいつものように無道邸で食事を済ませた。そのまま泊っても良かったのだが、なんとなくそうしたくないような気がしていた。
門を出て夜の街路に踏み出す。空は高く、細い月が出ていた。
暫く歩いた夜の住宅街で、蹲っている人影が目に留まった。
厭な、明らかに病的な咳の音がしていた。
水色のワンピースを着た、小柄で痩せた少女が背を丸めて咳をしていた。髪の色はにび色だったが、竜胆はその横顔をよく知っていた。
竜胆は急いで駆け寄った。
奈津から打ち明けられてはいた。
水着を選んでやった翌日、行き場を失った小猫のように夜の公園で泣いていた奈津を、竜胆は部屋に連れ帰って朝まで側に居てやったことがあった。
なかなか遠慮して話をしない奈津に、竜胆は自分の身の上も話していた。
佳奈も竜胆のことは奈津から聞いているようだった。すっと軽く頭を下げる。
佳奈はまた咳込んだ。
佳奈の声が頑なな響きを帯びた。
咳込む佳奈の目の前に、竜胆はそっと輸血パックを差し出した。
佳奈はそれを左手で払いのけようとしたが、その手は力なくパックを叩いただけだった。
佳奈の眼がすっと細くなった。にび色の瞳が一瞬だけぎらりと輝いた。
佳奈はのろのろと立ち上がってゆらりと背を向けた。
ひどく残酷な言葉を、佳奈は無造作に口にした。
一瞬、竜胆の動きが止まる。か、彼女は唇を噛んで佳奈の手を掴み、振り向かせた。
佳奈は無表情に言った。が、その仕種はどことなく子供じみていた。
佳奈の顔に僅かに苛立ちが混じった。
いつしか、竜胆の目には涙が光っていた。
佳奈は、しかしそんなことを見てもいなかった。彼女は自分の言葉で気持ちを昂ぶらせたようだった。
吐き出すような調子だった。その後で、佳奈は一頻りまた咳をした。茶色い痰のような物を路上に吐き出すと、彼女はやっと静かになった。
佳奈は不健康そうに尖った肩を震わせた。
佳奈は驚くほど強い力で竜胆の手を振り払った。
………そのまま、一瞬でコウモリに姿を変え、ばさばさと飛び去っていった。
竜胆は手を伸ばしかけたが、それを胸に戻した。
追いかけて追いかけられないことはなかった。しかし、そういう気分にはなれなかった。
竜胆は空を見上げた。月は相変わらず心細い光を放っていた。
一月程が過ぎた。
暦は9月になっていた。空の高い夜だった。十日くらいの月が薄い光を投げていた。
竜胆は堤防を歩いていた。ほそばを寝かせたあと、何故か寝付けずに床を抜け出したのだった。
妙な音に気付いたのはかなり歩いた頃だった。
ぽちゃっ、ぱちゃっという、なにかが水に飛び込むような音が奇妙な間を置いて続いていた。
竜胆は音のする方に目を凝らした。
白いブラウスに水色のスカートといういでたちの痩せぎすの少女が、河原で石を川面に投げつけていた。
竜胆はその少女に見覚えがあった。
佳奈は振り向いて竜胆を認め、身体を強張らせた。
竜胆は手近な階段から河原に降りた。
佳奈は河原に振り返り、元のように石を投げ始めた。
ただ投げているのではないことはすぐに分かった。佳奈は、川面で石を跳ねさせたいのだった。だが、彼女はそれについての技術を何も知らないようだった。
またひとつ石を掴んだところで、佳奈は身体を二つに折った。
あの厭な咳の音が、口に当てたハンカチの陰から洩れた。
佳奈は一頻り咳き込んでから、精一杯の虚勢を張るようにそう言った。
竜胆は適当な石を一つ選んで手に持った。
腰を入れて、手首のスナップを利かせて投げる。石は軽い音を立てて水面を切って三つほど跳ね、かなり向こうで水に飛び込んだ。
佳奈は暫く呆然としていた。が、唇を噛むと、自分もまた一つ石を投げた。
石は跳ねることなくぽちゃりと落ちた。
にっこりと笑って、竜胆はゆっくりとしたモーションから石を投げた。
石は川面を渡っていき、五度ほど跳ねて向こう岸に届いた。
佳奈は慌てたように平たい石を掴み、無造作に投げた。
石は同じようにぽちゃりと落ちた。
竜胆は佳奈の腕を取って石を投げさせた。石は一つ跳ねて落ちた。
佳奈は赤い顔をして手を振り払い、石を持った。
何回となく繰り返した後、一つの石がぴっと音を立てて川面を走った。
それは一度だけ跳ねてみずに落ちた。
佳奈は上気した顔で竜胆を振り向いた。子供じみた、ひどく幼い笑顔だった。
竜胆は優しい笑みを浮かべた。
佳奈ははっとして俯いた。
今までにない、素直な声だった。
竜胆はふと、奈津よりも佳奈のほうが素直なのかも知れない、と思った。
この子はその時の自分に素直なのだろう。
佳奈は素直に頷き、また黙々と石を投げ始めた。
何か、ひどく切迫したものがあるように、何度となく投げていた。石は一つ跳ねることもあり、跳ねずにそのまま水に落ちていくこともあった。
幾つ目かの石が、偶然、水平に近く飛んでいった。
それはまるで、投げ続ける佳奈の執念が乗り移ったように水を切り、大きく三つ跳ねて対岸に届いた。
竜胆は手を叩いた。
佳奈は真っ赤になって俯いた。竜胆は佳奈が照れたのだと思い、悪戯っぽく話し掛けた。
頷きかけた姿勢で、佳奈は激しく咳をした。身体を二つに折り、更に激しく咳き込み続けた。
竜胆は佳奈の背中をさすった。
佳奈は一頻り咳き込んでいたが、やがて茶色い痰のような物をぺっと吐き出してから静かになった。
うなだれたまま、佳奈は不明瞭な発音で言った。
佳奈は下を向いたままそう言い、靴の爪先で茶色い物を隠した。
ぬるりとしたものが潰されて赤い部分がちらりとのぞいた。
竜胆は視線を逸らした。佳奈の為には、見ていないことにした方が良いのだろう。
佳奈が顔を上げた。
佳奈は漸く背中を伸ばした。
暫く、彼女は何かを言いたそうな瞳で竜胆を見詰めていた。
竜胆は答えをじっと待った。佳奈はつと視線を逸らして、自信がなさそうにうんと呟いた。
竜胆は小指を出した。佳奈はそっと肉の薄い小指をそれに絡めた。
佳奈は首を振った。
竜胆は堤防に上がる階段の中途で振り返った。
佳奈はずっとこっちを見ていたが、暫くすると、ぺこりと、双子の姉がそうするよりもずっと深い礼をした。
礼をした後、彼女は蝙蝠に姿を変え、そのまま、ふらふらと頼りなげな軌跡を描いて夜空に舞い上がった。
竜胆はふと溜息を吐いて自分の手を見た。指切りをした小指に、僅かに血が付いていた。
ひどく濁った色合いだった。厭な予感がした。竜胆は蝙蝠が飛び去った方角を見遣った。
竜胆も蝙蝠に姿を変えた。危なっかしく、しかし佳奈よりはましな速さで佳奈の跡を追った。
佳奈は不規則に流れながら石田村の方角を目指していた。
竜胆は佳奈の身を案じながらも、独りで帰ると言った彼女の言葉を守ろうと敢えて距離を詰めずについていった。
峠を越える辺りで、佳奈の姿はいきなりかき消すようになくなった。
はっとするまもなく、下のほうでどさりという音がした。
雑木林の中の地面に、白いブラウス姿の少女が倒れていた。
竜胆は急いで舞い下り、痩せぎすの少女を抱えおこした。
うっすらと目を開けた佳奈は、焦点の合っていない瞳で竜胆の顔を見た。
佳奈はそこでやっと、相手が双子の姉でないことに気付いたようだった。
佳奈は頷いたが、咳の発作はなかなか止まらなかった。
やがてどうにか収まると、彼女は竜胆に手を貸してもらって立ち上がった。
佳奈は素直な顔をして、しかし頑なに言った。
竜胆は頷いた。
独りで往復できない身体になったら、ここには来れないと言いたいのだろう。
細かい事情は分からなかったが、その気分は理解できた。
佳奈はぺこりとお辞儀をして、また蝙蝠になって飛んでいった。
竜胆も蝙蝠に姿を変えた。跡を追おうかとも思ったが、それはやめた。
彼女は峠の上から、頼りなげに跳んでいく蝙蝠を見送った。
蝙蝠は山のすそ野の旧い小さなアパートの窓に入った。やがて、中からその窓を閉める様子が竜胆にも見えた。
竜胆はそっと翼を返した。
ほそばが起きて待っているかもしれない。待っていたら、ぎゅっと抱きしめてやりたい、と、何故か急に強くそう思った。
豊秋竜胆さま
突然のおたよりでごめんなさい。
この間は、佳奈のこと、ありがとうございました。
あの子、いつもはあんまり喋らないんですけど、あの日は、帰ってきてから珍しくいろいろ話してくれました。
石を飛ばすこととか、竜胆さんの声が優しかったこととか……
本当に、ありがとうございました。
でも、ごめんなさい、佳奈は……満月の晩には、河原には行けません……
暫く、お母さんの実家に帰ることになったんです。
そこで、暫くゆっくりするつもりです。
多分、冬になる頃には戻ってくると思いますけど……
今まで佳奈のこと、ずうっとほったらかしだったから、今更許してもらえるかどうかわかりませんけど、勝手に自分だけ外に出ていこうとしていたことを謝って、なるべく長い間側に居てあげたいと思います。
わたしも佳奈も、竜胆さんにはいろいろお世話になったのに、何もお礼が出来なくてごめんなさい。
それから、佳奈が、竜胆さんに失礼な事を言ったことも、ごめんなさい。
何を言ったのか、わたしには教えてくれないんですけど……。
こんなこと言い訳にしかならないんですけど、あの子、子供みたいなところがあって、つい何か心にもない事を人に言ってしまうんです。
あの子も、とても失礼なことを言ってしまった、竜胆さんに謝りたいと言っていました。
機会があったら、自分で謝りたかったんだと思います。
どうか許して上げてください。
上手く、書けなくてごめんなさい。
ほんとうに、いろいろありがとうございました。
津村奈津
竜胆ははっとして目を覚ました。無道邸の自室のベッドの上だった。
開け放たれた窓の外には、円を描いた月があった。
何か、夢を見ていたような気がした。何だったのかはよく思い出せない。
隣で寝ていたほそばがむずむずと目を擦り、こちらを見て、ははさま、まだ眠れませんと恥かしそうに言った。
竜胆の思考はやっと現実に戻って来た。眠れないほそばを寝かしつけようとして自分の方がうとうとしてしまったのだ。
竜胆は窓を閉め、ベッドの上に座ってほそばを抱こうと手を伸ばした。
ほそばは心配そうな表情で竜胆の顔を見た。ははさま、泣いておられるのですか、と柔らかい手で竜胆の頬に触れた。
夢の内容がおぼろげに蘇ってきたような気がした。竜胆は小さく頷いた。
眠れないなら少しお散歩しようか、と言うと、ほそばは嬉しそうに頷いた。
満月の夜空は晴れ渡っていた。
竜胆はほそばを連れて河原に出た。
河原を少しばかり探してみたが、やはり他には誰も居なかった。
さあっと強い風が渡っていった。風は彼女のパーカを揺らし、そのポケットに入れた手紙の存在を改めて竜胆に思い出させた。
ぽちゃんという音がした。ほそばが石を川面に投げたのだった。
竜胆は微笑み、ほそばに水きりのやり方を教えた。素直なほそばは数回するともうこつを飲み込み、小気味よく何度も石を跳ねさせることが出来るようになった。
ふたりでその他愛ない遊びに興じながら、竜胆はふと、あの子はどれだけ届かない石を投げていたのだろうと考えた。
ははさま、とほそばが声を掛けた。急に眠くなってきた様子だった。
ん、もう戻ろうね、と竜胆は笑い、ほそばを背中に背負った。娘は嬉しそうに竜胆の背中にしがみつき、堤防に上がる頃にはもうすやすやと寝息を立てていた。
ぽちゃん、という音が聞こえたような気がした。竜胆は振り返って河原を見詰めた。そこで不器用に石を投げている痩せぎすの少女がいるような気がして。だが、やはりそこには誰も居なかった。
ほそばが何か寝言を呟いてむずむずと動いた。竜胆はゆっくりと堤防を戻り始めた。
虫の声がしていた。月が高かった。心地好い風が渡って行った。
もう、秋だった。とうの昔に夏は過ぎ去っていた。
竜胆の佳奈との出会いと親身な触れ合いを、竜胆の視点から描く。