某日、瑞鶴。
レジ前から咳が聞こえる。
本棚の前で立ち読みをしている客が、上着を脱いで腕に掛けた。
瑞鶴内の温度が心なしか上昇している。
はたはたと片付けて、ごめんなさい、と、小さく呟いて花澄が出て行く。
どうやら一冊読み終わったらしい客が、残りの一冊を引き抜いてレジに向かう。
すう、と視線が硝子戸のほうに向かって。
双方礼をして。
そのまま片方は硝子戸を開いて出て行く。
戸が閉まる前に、するりと猫が一匹、隙間から中に入りこんできた。
そのまま、猫は入り口に座り込み、店長はレジの前の椅子に座り込む。
沈み込むような沈黙。
壁に掛けた時計の音が、耳朶を振るわせるようにも響く。
その合間に、耳鳴り。
ごう、と、表の通りを風が吹いていった。
ちりちりと、砂の小さな渦が、追いかけるように過ぎて行く。
『瑞鶴は、読みたがってる人と、読まれたがってる本を結ぶ糸だから』
『それを利用しては駄目よ』
『思いの糸を、利用するもんじゃない』
それは、恐らく他愛の無い結びつきで。
それが途切れたからとてその人生が変わることなどは、まあ、千に一つもないのだけれども。
印刷され、そのまま廃棄される本がある。
その一方で、その本を血眼になって探す人が居る。
ときに距離が、ときに知識が、ときに時間が、この二つを隔てている。
それを繋ぎあわすのは、瑞鶴。
しかし、もともとある糸は、瑞鶴には何ら関係無い。
『瑞鶴の店長の役割って何だろう、そしたら』
『その糸があるかもって、期待させる……ってとこかな?』
糸はあるのだ、と、気付かせるために。
ずぶずぶと沈黙にのめり込んでいたらしい。
椅子から立ちあがる。と同時に、硝子の向こうに足音が聞こえる。
レジの奥に置いてあった本から、すう、と、残像めいた糸がたなびく。
それを嬉しそうに受け取る客から、やはり、残像めいた糸がたなびく。
『どうせ、墓までは持っていけないのになあ』
『感動は持ってゆけるかもよ』
『……常套句』
『残るだけの重みのある言葉って言いなさいな』
今だけかもしれないけれども、やはり糸をしっかりと結んで。
ほんの数時間にせよ、やはり繋がりをしっかりと結んで。
からからり、と、硝子戸が閉まる。
見送って、店長はふとしゃがんで猫の頭を撫でる。
猫は、一つ欠伸をする。
ゆっくりと春が染み込んでくる、ある一日である。
1999年初春
人と本とを結ぶ縁の糸を取り持ち、繋ぐ書店が瑞鶴です。
そこに残る先代店長の記憶もそのままに。