登場人物-------
祝辞を述べた。「もしや……」という考えが頭をよぎる。
いずれ師との別れは来ると覚悟はしていたが、それが今とは思ってもみなかった。
そこまで言って言葉を止めた。師の顔を見た。肌の染み、刻まれたシワ、白髪……
老人を引き留めるような言葉を口から出すのは、ただの我侭に思えた。
老師の顔に笑みが走る。「相変わらずこの方は……」と思う。
返せる言葉は、ただ是のみ。
テーブルや椅子をすみに退ける。打ち合う為の空間を造ると、部屋の中央で老師に包拳礼をとる。
室内で対打(約束組手の型)を打つ師と弟子。攻防の技が決められている為、功夫の差が歴然と現れる。
老師の技は、攻に回れば隙間を水が刷り抜けるように吉武のガードの隙を潜り、防に回れば攻撃の手に触れるだけで吉武のバランスを奪う。吉武は必死に老師の技について行く。
套路(型)の最後に老師のガードが開いた。右脇腹に隙ができる。
渾身の打撃を打ち込む。老師はまともにそれを受け、涼しく答える。
吉武の鳩尾に老師の手が触れる。手がそこへ行くのが当たり前のように、何の違和感も無く置かれる。
自然すぎてその手を避けることができなかった。ただ「触られただけ」に感じた、腹筋を締めて警戒をとることさえ忘れる。
鳩尾に何かがねじ込まれるような感覚と同時に、吉武の体は後方へ吹っ跳び、背中を壁に強かにぶつける。窓ガラスが揺れる音がし、吉武の体はそのまま壁をずり落ち、くの字に折れ曲がる。
苦痛に顔を歪め目を剥く。視界に入るのは灰色の床。立てない。声すら出ない。
老師が近づいて来るのが判る。
老師の布靴が目に入った。
倒れたまま頷く。目を閉じれば先ほどの老師のモーションが見える。
吉武の背中を軽く叩いた。
老師が部屋から出た。
この後、一週間血の小便が出続けた。
吉武が中国吉林省で八極拳を学んでいた頃。
この後、師の元を離れ、己の学んだものを完成させる為、吉武は修行の旅を始めます。
ちなみに暗勁をくらって吹っ跳んで、暫く血の小便というのは、知り合いの武術家から聞いた話です。