小説030『夢見鳥』


目次



小説030『夢見鳥』


依頼


「野枝実ちゃん、丁度良かったわ。待ってたの」
 開口一番、氷冴はにっこりと笑ってそう言った。

 男性は勿論、女性から見ても『いい女』である相手からこう言われて……
で、背筋が寒くなるというのも、何とも悲しい話である。
(でも、理由があるあたり、なあ……)
 野枝実は小さく溜息をついた。
 FROZEN ROSES の女主人、薔 氷冴。薔薇の一字を名字に持つこの美女は、呪
符制作、情報収集の能力で知られている。彼女の営むこの寂れた酒場も、酒場
本来の役目より、その手の情報を手に入れようとする客が利用する、言わば一
種の緩衝地帯としての役目を果たしているらしい。

「何かあったんですか?」
 きしむ扉をまず丁寧に閉めてから、野枝実は尋ねた。くす、と笑うと、氷冴
はカウンター席へと手招きした。
 ちょんちょん、と小さく指を揃えて招く、その仕種が愛らしい。
「お仕事、頼みたいなと思ってたのよ」
「……仕事、ですか」
 誘われるままカウンター席に座ってから、野枝実は小首を傾げた。
はずみで長い髪が肩から落ちるのを、うるさげに払う。
「そ。やってみる?」

 この店の女主人、氷冴からの仕事。どこからか集まってくる厄介ごとを、彼
女は客の能力に従って割り振る。
 報酬は、様々。時にはそれは情報であり、時には氷冴作の呪符であったりす
る。
 仕事に見合う報酬かどうかは、請け負った側の決めることである。
 今のところ苦情は出ていないらしい。

「どんな仕事です?」
「尋ね人、かしらね……って、あらごめんなさい。まず、ご注文は?」
「日本酒…何かいいのありますか?」
「この前野枝実ちゃんが言ってた関の井、生酒があるけど、それでいい?」
「はい」
 透明なグラスに、透明な酒が注がれる。
手元に置かれたグラスを一礼して受け取ってから、野枝実は改めて尋ねた。
「それで、尋ね人って?」
 そうねえ、と、氷冴は小さく呟いた。
「まず、ちょっと見てくれる?」
 彼女は少し身をかがめると、カウンターの内側から何やら取り出した。
グラスのとなりに、とん、と置く。
 野枝実は少し目を眇めて、それを見た。
「スノーボール?」
 丁度手の上に乗っかるほどの大きさのスノーボール。中にはその手の物にし
ては破格に精巧な、お菓子の家と木立が入っている。
 取り出したはずみで舞い散る雪が、木立の上にゆっくりと積っている。
 何の気無しに伸ばした手を、氷冴が遮った。
「気を付けて。ただの玩具じゃないから」
「……何なんですか?」
「どうやらね、どこかの莫迦が霞が池の水を詰め込んだらしいのよ」
「……霞が池の?」
 どう贔屓目に見ても、良い印象の無い単語である。
「それで、これと尋ね人とどういう……」
「野枝実ちゃんじゃないとわからないことなの、それが」
 耳に響きのいい言葉だが、それがどれくらいの厄介ごとを含むかは、流石に
野枝実も承知している。微かに眉をひそめた顔を、氷冴が可笑しげに眺めやっ
た。
「本当に、正直な顔ね」
「え?」
「思ったことが全部出てる」
 言うだけ言って、くすくすと笑う。
「……すみません」
「あら。謝るようなこと、考えてたの?」
「……あの」
 困ってます、助けて下さい、と、いいたげな表情に、また氷冴は笑ったが、
今度はすぐにその笑いを引っ込めた。
 白い指がスノーボールを、二、三度撫でる。
「野枝実ちゃんにはね、この音を聞いて欲しいの」
「音を、聞く?」
「そう。スノーボールの中の雪が、屋根に、木立に落ちる音」
「……聞こえない音を、聴くんですね」
「そう」
 短く答えると、氷冴はピアノのほうに合図した。
 ピアノの音が止まり、チャコールグレーのドレスを着た女が振り返る。
「なあに、ママ?」
「ちょっと手を止めて……ついでにこっちいらっしゃい」
 黒い長い髪のすっきりとした顔立ちの女は、奇麗な身のこなしで立ち上がり、
野枝実の隣の席に腰を下ろした。
 視線が合うと、にこ、と笑う。
「静かにね。……いいかしら、野枝実ちゃん?」
「はい」

 氷冴の白い手が、無造作にスノーボールを取り上げ、何度か振ってからカウ
ンターに戻す。
 それを野枝実は、じっと眺めた。

 音を、聞く。
 聞こえない音を、耳を澄ませて聞く。
 ひらひらと舞う雪。それが静かに落ちてゆく音。
 お菓子の家に積る雪。
 ゆっくりと息を吐きながら、目を閉じる。瞼の裏に残る落ちてゆく雪を
 追いながら、耳を澄ます。

 ゆっくりと。
 ゆらりと。

 心が、澄む。



 と。

 ぱたん、と、扉の開く音がした。
 そして、ぱたぱたと駆けてくる音。
 そして、どこか幼い子供を連想させる息遣い。

  「あなたはあたしを見つけたの?」

 はっと野枝実は目を上げた。
  
  「あたしは見つかったのね?」

 カウンターの隅に、小さな少女が立っていた。
 青白い顔は、影から滲み出てきたように見えた。
 
  「あなたが、見つけたのね?」

 10歳にはなっていないだろう。黒い、長めのおかっぱは艶やかで、目は濃い
鳶色。瞳と虹彩が同色の所為か、引き込まれるような印象がある。可愛らしい、
というより、整った、と言ったほうがよい顔立ちをしている。頬の辺りの線が
尖ったように鋭い。
 少し病的なまでに細い体を、白いドレスが包んでいる。

   「あたしは、夢見鳥」

 視線の先で、少女は悪戯っぽく笑った。子供らしい表情のどこかに、ぞっと
するような毒々しい色が流れた。

   「じゃ、次は」

 鳶色の瞳が野枝実を見据える。
 あどけない口元が動いて、嘲笑いの形になった。

   「あたしが、鬼」

「!」

 思わず身を反らした瞬間。

「そこまで」

 一つ、手を叩く音に、野枝実は瞬きをした。
 そして……気付いた。
 今の今迄、自分は目を瞑っていたのだ。
 すっと、胃の辺りが冷えた。

「……氷冴さん、今の見ました?」
「やっぱり野枝実ちゃんには見えたのね」
「って……」
 隣の席の女を振り返る。女はちょっと困ったような顔をして、首を横に振っ
た。
「何も、見えなかったけど?」
「何が見えたの?」
 氷冴の問いに、野枝実は一つ息をついてから答えた。
「女の子が。小さな……小学生、それも低学年くらいの。
 ……夢見鳥、と、名乗ってました」
 夢見鳥、と、氷冴が呟く。
「あなたはあたしを見つけたのって……訊いてきて……」
 そこで野枝実は一つ息を呑んだ。
 記憶の中にある、恐怖の形。

「次は、あたしが鬼、って……」

 氷冴が口元に手を当てて考え込む。
 静かにその口元がほころびて。
 ……そして、意外な言葉を吐き出した。
「……では、網にかかったのね」
「?」
 戸惑って見上げる顔に、氷冴は極上の笑みを返した。
「その子を、見つけて欲しいのよ」
「……え?」
「夢見鳥。その子を、見つけて欲しいの」
 野枝実は首を傾げた。
「だって、向こうが見つけるって」
「あら、向こうが見つけるまで待つの?」
「え?」
 マホガニーレッドの唇が、どこか鋭い笑みの形になる。
「見つけられる前に見つけないと、壊れちゃうわよ、野枝実ちゃん」
 転がるように軽く言い放つ。
 反対に野枝実は息を呑んだ。
「どういう意味です?」
「最近ね、夢を壊される人が増えてるのよ。夢だけならいいけど、中には心ま
で壊される人もいるみたい。で、その人達が揃って告げる名前が……夢見鳥」
「あの子、ですか」
「さあ。私は見てないもの」
 しれっとして応じられると、既に野枝実には言葉が無い。
「幾つか情報はあるわ。被害者の名前と居場所……取りあえずは」
 白い手が何枚かの書き付けを引っ張り出す。
「それで、夢見鳥が見つかったら……どうしますか?」
「それは勿論、相応に……」
 言いかけて野枝実の顔を見た途端、氷冴はころころと笑い出した。
「……あのっ!」
「とは言わないから、安心して。見つかったところで連絡をくれると嬉しいわ」
「……はい」
 こくり、と一つ頷くと、野枝実はグラスを空けた。
 氷冴がお代わりを注ぐ。
 白い手を辿って、野枝実は相手の顔を見上げた。

「質問して、いいですか?」
「なあに?」
「この件、霞が池は絡みます?」
「さあねえ……どうして?」
「このスノーボール」
 触れないようにして示された玩具を、氷冴は暫しきょとん、として見たが
「あら、これは関係無いわ」
 ひょい、と取り上げ、手の上にのっける。
「え? でも」
「夢見鳥を引っかけられないかな、と思って」
「……でもなんで、スノーボールなんです?」
 首を傾げる野枝実に、にこ、と笑うと、氷冴は細い指で中の家を示した。
「これ、何だと思う?」
「お菓子の家、ですね?」
「そ」
 首を少し傾げて、婀娜っぽい笑いをこぼして。
「お菓子の家には、魔女がつきものでしょ?」
 二の句が継げなくなった野枝実の代わりに、今度笑い出したのは、グレーの
ドレスの女だった。
「なら、ママが出てきても良さそうなのにね」
「……」
 ちとん、と、氷冴が女を睨む。
 慌てて野枝実が間に入った。
「ええと、とにかく、霞が池とは、直接の関係はなさそうだ、と」
「まあそんなところ。今のところはね」
「じゃ……」
 今のところ、ときたものだ。
(氷冴さんって……正直だから)
 多分大丈夫、ただ、本当にそうかは分らない。そんな時この人は、下手な気
休めを絶対に言わない。
 何となく……溜息が出る。氷冴に、ではなく、氷冴にそう言わせる状況に。
「受けてくれるでしょ?」
 にっこりと。
 薔薇が綻ぶに似て、艶やかな、そしてどこか誇らかな笑み。
 一体何人の男をその笑い一つで落としてきたのやら、と、やや自棄ぎみに野
枝実は考えた。
「……それは、受けますよ。受けても受けなくても、追っかけられるには変わ
らないんでしょう?」
「まあ、そうだけど?」
「受ければ少なくとも、報酬を期待できるんでしょうから」
「受け取るのが友久だったりしても?」
「……晃一にしといて下さい」
「じゃ、遺言状に書いといて」
「はい」
 こっくりと頷くと、何が可笑しかったのか、氷冴はまたころころと笑った。


第二章:夢渡夢


 影を渡り、影を操る。
 異界の音を聞き取り、聞こえぬ音を捉える。
 そのどちらも……呆れるほどに儚いものなのかもしれない。


 書き付けに並んだ、幾つかの名前。年齢も性別もばらばら、取りたてて共通
する要因はない。
「……まずは、当たってみるしかないんだろうな」
 ぼそ、と呟いた声に、同居人の片方と、同居猫が揃って渋面になった。
 夜十時。もう一人の同居人は、もうすっかり眠り込んでいる。
「仕方ないだろ」
「被害がこちらに来なきゃいいけどな」
「私はともかく、晃一に被害があったらどうする」
 ほぼ同時にそう言った二名を見やって、今度は野枝実が仏頂面になった。
「……しみじみと、信用されてないな」
「信用とは、それ相応の積み重ねを必要とするもんだろう」
 影猫が容赦なく言ってのける。
「うるさいなお前はっ」
 正面切って、否定出来ないあたりが悲しい。
「それで、どうする気だ」
 友久の問いに、野枝実は即答した。
「夢を、渡ってみる」
「出来るのか?」
「あまり得意じゃないけど」
 そこまで言って、野枝実は鬼李に視線を移した。幾分わざとらしい疑問符を
浮かべて、鬼李が相棒を見返す。
「ここ、行ける?」
「報酬は6:4」
「……7:3…って、貰ってどうする気」
「さあ」
 しれっと答えた鬼李の耳の間を指で一つ弾くと、野枝実は改めて一つの住所
を示した。

 渡った先は、病室だった。
「この男か」
「そう」
 細身の、恐らくは野枝実と大して歳の違わないだろう青年。
「悪夢を見ているようには見えないが」
「そうだけど」
 言いながら野枝実は、うすぼんやりとした灯りの元に伸びる、やはりうすぼ
んやりとした自分の影をすくい上げ、青年の額のあたりに落とした。
 影は、そのまますう、と、頭の中に染み込んでゆく。
「これでいいか」
「一旦戻るか?」
「勿論。ここで寝るわけにはいかないしね」
 言った時には、半身が影に呑み込まれている。


 相手の夢の中に放った影を通路にして、自分の夢から相手の夢へと渡る。
 野枝実本人にしても昔からこの能力を知っていたわけではない。何といって
も夢の話である。「なあんだ夢か」で片付いていた筈のことが片付かなくなる
には暫らくかかった。そして、その能力を使えるようになるまでにも。
 夢を、渡る。
相手が夢から醒めれば、自分は自分の夢へと弾き返される。
それが出来るようになるまで、幾度か夢の中を迷った。
 夢を、渡る。
渡った先に影が無ければ、やはり自分の夢へと戻る。
渡った夢に関与することは……出来るのかどうか。
 眠りの中に落ち込んでゆく間、そんな事を、野枝実はうつらうつらと考えて
いた。


自分の薄青い悪夢の中へ、と。

 落ちて。

  落体落下。
 
    ゆらゆらと。

      そして悪夢の底へ……

               ……着地、する。

薄青い、青磁の色の壁に手を触れて。

『怖イ』
 冷たい壁から跳ね返る声。
『怖がっている暇はない』
『異界ガ流レコンデクル』
『その前に、こちらが渡る』

黝い影の中へと、身を潜らせる。

夢に呑まれるか。
夢を溯るか。

 いつも、それは賭けである。


「……うまく行くのか?」
「さあ」
 一時間経って起きないようならば起こしてくれ。
 そう頼んで野枝実は眠り込んだ。
「さあ?」
「失敗するほど、野枝実も夢を渡ったことはないからね」
 三秒ほどの沈黙が、反応に先立った。
「……無謀」
「全く」
 応えは早かった。



第三章:滞夢〜夢喰らい


 綾錦。
 色づきはじめた緑から黄色へ、そして朱へ。
 絢爛たる、色の乱舞。
 さわ、と、時折風になびいて。

 影から抜け出した途端、艶やかな色彩が目を奪った。
 視界一面、色づいた葉がちりばめられている。微妙な色合いで変化してゆく
葉が幾重にも重なる様は、何故か、色鮮やかな蛇の鱗を連想させた。
「……これが、悪夢?」
 書き付けには確か「悪夢を見続けている」とあった筈である。その割に、目
にしている夢は見惚れるほどに美しい。
 ふと足元に目を落とすと、乾いてなお鮮やかな色を残す葉が落ちており、そ
の合間から、真っ黒な闇が顔を覗かせていた。
 足元に引きずる影が、落ち葉の色を少しくすませる。その色さえ、まわりの
鮮やかな色を引き立たせるかのように見えた。

「に、しても」
 呟いて、野枝実は辺りを見回した。大概の場合、存在してしかるべきものが、
ここには見当たらない。

 ……誰が、この夢を見ている?

 確かに第三者として、言わば宙に浮いた視点から夢を俯瞰することもある。
しかしそれならば、その視線くらい感じ取れそうなものだが、それらしい気配
は一切無い。いや、そもそも、人の気配が、この夢には無い。
「……妙な、夢だな」
 自然と声は小さくなる。
 その、妙な夢に関わっている者……
 ……それが、夢見鳥、なのだろうか?
 そっと一歩を踏み出す。かさり、と、落ち葉が砕けた。

 と。

 こおおお、と、声がした。

「?」

 風の音によく似た、けれども、人の……声。
 まるで風をそのまま吐き出すような。
 視線を動かす。その音の源を、そっと捜す。

 こおおお、と、また、声。
 一面の綾錦の中に、微風が起こる。
 ちらちらと細かく揺れる葉の奥に、その時やっと何かが見えた。

 黒い、何か黒いもの。
 
 天地を逆に釣り下げられている、者。

「……鬼?」
 黒の肌。額を貫く角。四肢に生える鋼の色の爪。
 あまり、大きな鬼ではない。
「あれが、夢の主、か?」
 小さな呟きが耳に届いたのか、鬼が身じろぎをした。同時に、鬼の体を絡め
取る細い糸が鈴の音のようにきらめいた。
 紅葉の錦にくるまれ、絹の糸に絡め取られた鬼。
 絵巻物のような光景では、あった。

「……は」
「え?」
「おまえ、は」
 かすれた声が、耳に届いた。鬼は赤い目をこちらに向けている。
「夢見鳥、か?」
「いや」
 きっぱりと答えてから、野枝実はさくさくと落葉を踏みしだいて鬼に近づき、
視線を合わすように膝をついた。
「夢見鳥を知っているの?」
「あれに、捕らえられた」
 鬼の輪郭が、覗き込む間にぼやけ、先程見た青年のそれに近づいてゆく。
「この、糸か」
「この、夢に」
 良く見れば、絹の糸を伝ってほたりほたり、と、血が滴る。滴る血は一度闇
に混ざり、紅葉と化して浮かび上がってくる。葉の表が光を鈍く反射するのを、
野枝実はまじまじと眺めた。
「この夢を、続ける為に、か」
 広がる闇を埋めようとするかのように、様々な色合いの葉が生まれてくる。
 確かにそれは、一幅の絵。
 ただ、その夢には核がある。
「……その糸は、はずれないの?」
「俺には、出来ない」
 そういう、ものなのだろう。
「……あんたは、出来るのか」
「わからない……やってみようか? どうする?」
 鬼の口が裂けるように開いた。笑っていると気が付くまで少々かかった。
 こおお、と、風の鳴る音に似た笑いだった。
「やってみてくれ」
 その合間に、かすれるような声が届く。
「どうせ、夢のことだ」
 その夢が問題なのだ、とは、今更野枝実も言わなかった。
「失敗したら、申し訳ない」
 一言言ってから、鬼の左手の中指から伸びる細い糸へと手を伸ばした。

 細い絹の糸に手を触れ、そっと引こうとした瞬間。

 ぱあん、と。

 はじけて、飛んだ。

 鬼の、体が。


 スローモーションのように。
 頼りないような細い糸が、鬼の黒い肌に食い込み、千々に砕いていく。
糸が消えていった狭間から、今度は朱の色が膨らみ、はじける。
 生暖かい朱の雨が自分の上に降り注ぐのを、野枝実ははっきりと感じ取った。
 砕かれた鬼の破片が、その中に混じる。もはや正体も分らぬほどに細かく刻
まれた鬼が、朱の色の中に時折浮き上がる。
 見開いた目に、それは異様なほど鮮やかに映った。


 ことん、と重い音が野枝実の硬直を解いた。
「……!」
 身を翻すと、そこには鬼の頭だけが、無傷のまま転がっていた。
 赤い目が、振り返った野枝実のそれを見据えた。瞬時後ずさりかけて、野枝
実は息を呑んだ.
「目が、覚めない?!」
 自分の体がはじける夢。普通そこまでの悪夢を見れば、衝撃で目を覚ます。
もしくは砕けた自分自身から、視点は外部へと動く。
 で、ある筈なのに。

 こおお、と、鬼の口だけが動く。
 吐き出される息は、無い。
 赤い目から、赤い涙が流れている。
「……まさか……痛い、の?」
 後から考えれば妙な問いなのだが、鬼は一つ瞬きをしてその問いを肯った。

 これは、夢。
 覚めぬ夢。
 
 首だけで転がされている鬼。
 夢の中で死んでゆく、とすれば。
 死んでしまうのだ、と、思い込んでしまえば。
 ……どうなる? 

 鬼の目が、ゆっくりと閉じてゆく。
「……おい!」
 思わず駆け寄って、頭を持ち上げる。
「これは、夢なんだから! 必ず覚めるから!」
 野枝実の声に、鬼の視線が持ち上がる。その中の苦痛に野枝実はたじろいだ。
「でも……覚める夢だから! だから」
 そこまで言って、野枝実は口をつぐんだ。だから今は我慢しろ、と、言えた
義理ではない。

 もし、今、目を覚ますことが出来たら?

 ふと、そんな考えが浮かんだ。
 もし、自分が目を覚ますことが出来たら。
 この青年を、叩き起こすことは出来るのではないだろうか?
「でも、どうやって……」
 鬼の頭を抱えたまま野枝実は視線をさまよわせ…そしてそこで視線を止めた。
 冷気が、どう、と吹きつけた。

 鳶色の、瞳と虹彩が均一の色の為、吸い込まれそうになる目。
 長めのおかっぱの髪。
 白い、いやむしろ青白いような、肌。

「夢を、壊したね」

 低い、どこか老婆のような声だった。

「あたしの夢を、壊したね」

 白いドレスの裾が、はたはたと靡いているのが、妙に記憶に残った。

「お返し」

 小さな手が伸び、鬼の首にかかる。抵抗したつもりだったが、まるで霧が手
をすり抜けるように、鬼の首は少女の手に移った。

「……どうする気」
「知れたこと」

 細いあごをくっと上げて、少女は視線を流す。
 細い腕が、鬼の首を持ち上げる。
 その口元が、婉然と微笑んで……そして。

「喰らう以外に、遣いようも無い」 

 くわっと、引き裂かれたように広がった。

「させるか!」
 咄嗟に己の影を操り、少女の腕にぶつける。意表を突かれて取り落とした首
を、そのまま影の腕に受ける。
「貴様っ!」
 叫び声は甲高かった。
「よくも!」
 ざん、と、幾千枚もの葉が、宙に舞った。葉は薄い刃と化して、野枝実の上
に降り注ぐ。 
「!」
 影を広げ、その強度を増す。薄い壁の後ろで、野枝実は唇を噛んだ。
 これは、自分の夢ではない。夢見鳥のこしらえた夢。その夢の中の全てがこ
の少女に従う。
「その程度?」
 不意に耳元で囁かれて、野枝実は危うく鬼の首を落としそうになった。
 ふふ、と、笑い声が耳をくすぐる。
 冷たい、息だった。
「あたしの夢、壊した者だもの。壊さないと、ね」
 思わず手で払う。ひょい、とそれを避けた少女は、少し離れてやはりくすく
すと笑った。
「もう、見つけてしまったものね……もう少し、遊びたいのに、ね……あ、でも」
 白い顔が、きゅっと笑いに似た形に歪んだ。
「ねえ」
 白い手が、野枝実の喉元に伸ばされる。

「あなたの、ゆめは、どこ?」

 動こうとして、動けないことに野枝実は気付いた。
 今まで飛んでいた落葉は一斉に消え、代わりに野枝実の長い髪に、びっしり
と絡み付いている。
 小さな、手の、ように。

「ねえ、にげてみない?」

 逃げれば、自分の夢に戻る。
 そして……この少女に食われる。
 そのことを、野枝実は確信した。

「にげないの?」

 そおっと。
 冷たい手が喉元を撫でる。

「あたしに、このままたべられたい?」

 くすくすと笑う少女が、ゆっくりと野枝実の首筋に口を近づけ、触れかけた
……刹那。

「!」
 野枝実の影が少女の髪を掴み、思い切り放り投げた。
「性質の悪いっ」
 野枝実にすれば、我慢の限界である。後はどうしよう、なぞという考えのあっ
たわけではない。
「……往生際が悪いわね」
 ひらひらと、少女の体が宙を舞った。妙に優雅な動きだった。
「でも…そうね、もう少し、遊んでくれるわよね。そこまで諦めないんだもの」
 ひらひらと、少女のからだが降りてくる。
「怖い夢を見たい?」
 無邪気な、問い。
「何が、恐いのかしらね?」
 問いと同時に、瞳を合わせるように覗き込む。
「ねえ?」
 合わせた瞳は、ふと、氷冴の見せてくれたスノーボールを思わせた。
「ねえ、見せて?」
 瞳の中に映る、怖いこと。
 怖い、こと……?
「……いやあっ!」
 縛める紅葉を振りほどくほど強く、野枝実は首を振った。
 引き千切れてゆく、長い髪が肩をかすめ……


「野枝実!」
「!」
 見開いた目に、まず蒼い色が飛び込んだ。
「ひどくうなされてたから起こしたんだが」
「……有り難い」
 がくり、と体中から力が抜ける。時計を見やると、まだ半時間と経ってはい
ない。
「……助かった」
「何があった?」
 鬼李の問いに答えようとして、野枝実ははっとして身を起こした。
「ごめん。もう一つやることがあった。すぐ帰るから」
 言うなり影の中に滑り込む。出て行く先は先程の病室である。

 影から抜け出した先で、青年はまだ静かに眠っていた。
 静かに……ゆっくりと、呼吸が間遠になってゆくように。
「起きろ!」
 人を呼ぶ訳にはいかないので、声は小さい。代わりに野枝実は相手の肩に手
を掛け、思い切り揺さぶった。
「起きろ!」
 小さな呻き声が、返ってきた。
「こら、鬼!」
 はっと、相手の目が開いた。
「……先刻の」
「夢の中では、悪かった」
 言って、ぺこりと頭を下げた野枝実を、相手はまじまじと眺めた。
「夢から、来たのか?」
「まさか」
「ではどこから」
「何にせよ……生きててよかった」
 野枝実にしてみれば、それが何よりである。
「とにかく……申し訳ない。無事で、何より」
 言うだけ言って、後はすとん、と、影の中に沈む。
 正直それ以上は、彼女のほうがもたなかった。



幕間狂言〜女の勘?


 FROZEN ROSES。
 静かにピアノの音色を聞いていた氷冴は、ふと、視線を上げた。
『申し訳ない。影を潜って入っても宜しいか』
 指向性のある心話。二、三度聞いたことのある口調。
「どうぞ」
 くす、と笑って答えると同時に、目の前のスツールの影から黒猫が姿を現わ
した。
「失礼した。流石に私では、あの扉を開けることが出来なかったもので」
 律義に謝りながら、ふわりとスツールに飛び乗る。
「構わないわ。で、何か?」
「お願いしたいことがある」
「野枝実ちゃんのこと?」
 いやまさか、と、黒猫は首を横に振り、少し考えてからくるり、と首を廻し
た。
「あれが原因では、あるな。……こちらに、夢を封じる呪符、というのはある
だろうか」
「作ればあるわね」
「作って頂けないだろうか。代金は野枝実につけておいて頂ければ良し」
 出来るだけ急いでもらえれば有り難い、と、黒猫は付け加え、氷冴は頷いた。
「それで、夢見鳥は見つかったのかしら」
「とうの昔に」
「見つかったら教えてって言ったのに」
 小首を傾げた氷冴に、黒猫は一つ瞬きをして答えた。
「……というか、野枝実が見つけたのではなく、相手が野枝実を見つけている
んだがね」
「夢の中で?」
「悪夢展覧会に入った途端見つかったそうだ。だから相手を見つけるどころか、
逃げるだけで精一杯、というところなんだろうな」
 夢見鳥本体を何とか見つけるまで、連絡するべき内容が見当たらないのだろ
う、というのが黒猫の見立てだった。
「野枝実ちゃん、苦戦してるようね」
「あれが苦戦しようがしまいが、私には関係無い筈、なんだが」
 金色の目に、やれやれ、とでも言いたげな光を浮かべて、野枝実の相棒であ
る筈の影猫はあっさりと言い切る。
「今回は、他の同居人まで迷惑を被っているもので」
「あら」
「ここ数日、悪夢から悪夢を渡っているんだが、まずいことに晃一に、野枝実
の見る夢が伝染している」
 あら、と、もう一度呟き、氷冴は考え込んだ。
「野枝実ちゃん、夢見鳥に捕まったのかしら」
「あれの夢は、まだ見つかっていないらしい」
 くるり、と細い尻尾が円を描く。
「が……あれの知覚が丁度夢と夢とを繋ぐ格好になっているらしくて、野枝実
の見ている野枝実のものではない夢を、晃一が見ている」
「変なことになっているわね」
 なに、そんなこともない、と、影猫はこともなげに言った。
「要は、どこを駆け回ろうと、野枝実の尻尾は野枝実の頭にあるだけのこと。
夢見鳥とやらも、本体に近づけば終いだろうに」
「それが出来ないのかもよ」
「……ふうん?」
 金の目が、少し細められた。
「それは、情報だろうか?」
「まさか。単なる女の勘」
「女の勘、か」
 その言い様が何となく可笑しくて、氷冴がくすくすと笑う。
「信用する?鬼李」
「信用出来る、と思ったよ」
 存外真面目に影猫は応えをし、一つ伸びをした。
「では。……申し訳ないが、呪符を宜しく」
「晃一君の安眠に関わるものね」
「全く」
 溜息を一つ残して、影猫の体は床に伸びる影の中に吸い込まれていった。


幕間狂言〜悪夢三昧

「みいつけた」

 胡粉を塗りつけた、赤い硝子の目玉の兎。

「みいつけた」

 くたびれた天鵞絨の、道化師の服装の猫。

「みいつけた」

 かっぱりと開いた、紅い口。

「みいつけた」

 扉は無数。
 道も無数。
 鬼も無数。

「みいつけた」

 目を見開く胎児。

「みいつけた」

 腕のない、ぎょっとするほど美しい女。

「みいつけた」

 笑う、目の無いおかっぱの童女。
 ぱりんと割れたまま動く、砂時計。
 押し寄せる黒い風。

 ぐるぐると、鬼がまわる。
 ぐるぐると、取り巻いてまわる。
 ぐるぐる、ぐるぐると。

 扉は無数。
 道も無数。
 鬼も無数。

 伸ばされる手は一つ。

 開けようとした扉が向こうから開いて。

「みいつけた」
「!」


 見開いた目に、時計の蛍光色の文字が飛び込んできた。
 午前三時半。
 溜息をついて上半身を起こす。
 額に張りついた髪を払いのけて、野枝実は溜息をついた。

 何故、恐いのか。
 何故、あんなにも怖かったのか。
 起きてみればその理由さえ分からない。

 たかだかの夢。
 夢の内容は良く覚えている。が、記憶をひっくり返しても、何が恐いのかさ
え分かりはしない。
「それが、夢っていえば……そうだけど、さ」
 低く、呟く。
 それが夢。
 理屈も何も、時にしてすっ飛んでしまう。
 もう一度溜息をつくと、野枝実は一つ頭を振った。

 と。

「みいつけた」

 野枝実は、動かなかった。
 否、動けなかった。
 背後からかけられた声。どこか幼い、どこか舌っ足らずな。
 そして、確かに聞き覚えのある。

「みいつけた」

 伸ばされた手は、ひんやりと冷たい。
 その手が喉に絡み付き、そしてそのままゆっくりと後ろへと引き倒してゆく。
 ゆっくりと、喉が締め付けられてゆく。

「……や……」

 苦しい。
 細切れになった鬼も、やはり苦しんだろう。 
 夢が現になったのか。
 それとも夢は、元々現であるのか。
 ひゅうひゅうと、喉が鳴る。

「花を咲かせるの」

 明るい声が告げる。
 
「桜、咲くね」

 心から嬉しそうな声。

「今度こそ、咲くね」

 逃げようと、伸ばした手が力を喪って落ちる。
 こんなに嬉しそうに、自分を殺そうとする者がいる、ということ。
 そんなにも……

 
 ふうっ、と、威嚇の声が耳に届いた。
 同時に、喉に廻された手から力が抜ける。きゃあ、と甲高い悲鳴が響いた。
「……えみ」
 崩れるような音。そして何かが羽ばたく音。
「野枝実!」


 はっと、野枝実は目を見開いた。
 暗がりの中に、二色の目が浮かんでいる。
「……起きたか」
「今、何時?」
「三時半少し過ぎ、か」

 野枝実の表情が強張った。そのまま跳ねるように起き上がる。
 鬼李が驚いたように二、三歩下がった。
「鬼李」
 その様子に構わず、野枝実が呼ぶ。近づいてきた鬼李を抱き上げ、抱え込む。
 子供がぬいぐるみを抱え込むように。

 悪夢祓い。
 影の筈なのに、鬼李の体は温かい。
 かたかたと、小刻みに震えていたのがゆっくりと止まる。
 ゆっくりと、眠気が押し寄せる。

「悪夢か」
「うん」
 目を上げると、蒼い目がこちらを見ている。
「どんな」
「花を咲かせるんだって」
 静かな安心。
「嬉しそうだったよ。ああ、こんなに嬉しそうに殺す奴がいるんだなって
 ……そう、思っ……」
 不意に、視界から蒼い目が軌跡を描いて消えた。

「……せめて離してから寝て欲しかった」
 話しながら眠りに垂直落下したらしい野枝実の腕の中で、鬼李がぼやいた。
「寝るんなら自分で寝ろよな」
 言葉が終わる前に、ぐらっと上体が泳いだ。慌てて支えた時にはもう、野枝
実は熟睡していたものである。
「……で、夢見鳥か」
「多分」
 短く答えると、鬼李はするりと野枝実の腕を抜け出した。
 首のあたりにかかった髪を、前足でちょんちょん、と払う。
「見えるか」
「見える」

 白い首には、はっきりと、子供のものらしい小さな手の痕が残っていた。



幕間狂言〜胡蝶迷夢


 はらはらと、微風にも耐え得ぬような白の羽根が舞う。
 夢と夢の間隙を縫って。

 夢を、探している。
 いつか見た、桜の木の夢。
 あの木の元に、辿り着きたい、と。

 ……白い揚羽蝶? 珍しいわね……

 そう言って、手を差し伸べた人。
 散ってゆく桜は、しかし減る気配も無く。

 無限の春。
 途絶えることの無い春。

 あたたかな大気。
 あたたかな風。
 桜の元で、まどろむ人。


 『ここは寒い』
 『どんどん寒くなるね』
 『どんどん眠くなるね』
 『ねえ、ちょうちょさん、眠くなったの』
 『ねえ、夢も見ないで眠るって、お母さん言ったけど、
  ……それじゃ面白くないね』

  そだね……


 はたはたと、白い蝶が飛んでいる。

  お腹が空いたから、夢を食べてみたら、美味しかった。
  でも、やっぱりお腹は空いたままだった。
 
 触れれば儚く砕けそうな、淡く光る白い羽根。

  夢を探したけど、夢は見つからなかった。
  だから夢を作ってみた。
  でも、桜は咲かなかった。
  桜の下には、死体が埋まっているって言ったから、人を埋めてみた。
  でも、桜は咲かなかった。

  どうしてだろうね。
  どうして桜、咲かないんだろうね。

  夢、壊サレタノ
  紅葉ダッタケド、デモ、壊サレタノ
  紅葉、イツカハ桜ニナルカモシレナカッタノニ

  どうして桜、咲かないんだろう。

 夢から夢へ。
 花から花へ。
 せわしなく渡り歩き。

 ふと、思いつく。

  桜ノ下ニハ、死体ガ埋マッテイルノガ正シイノナラ、
  死体ヲ埋メナキャア、桜ハ咲カナイノカモ、ネ…………

 くすくすと。
 含み笑いが、夢の狭間を縫って飛ぶ。

  生キテイタカラ、イケナカッタンダワ。
  生キテイタカラ、スナオニ桜ヲ咲カセナイデイタンダワ。

 夢のように無邪気な笑い声。
 幾多の夢に、鈴のように響く笑い声。

  デハ、見ツケナキャ。

  誰を?

  ……夢を壊した、あのひとを……

          ……あの人の、夢に、埋める。

 夢にこだまする想い。
 夢にこだまする笑い。

 はらはらと、羽根から落ちる鱗粉のように。
 笑いは、幾多の夢の中に落ちてゆく。

 胡蝶が一匹、夢の狭間を飛び続ける。



第四章:夢見草


 溜息をついてしまってから、野枝実は慌てて背を伸ばした。
「……野枝実?」
「え?」
「疲れてるの?」
「……ううん」
 いつものように答えたつもりだったが、相手は騙されてはくれなかったらし
い。
「余程寝てないか、何かに熱中してるんじゃない?」
 どうしてこの相手は、こういうことに限って敏いのだろうか、と、野枝実は
心中で頭を抱えた。

 夢見鳥を見たわけではない、と、鬼李は言った。
「気配は、あった。それにあんたはうなされていた。だから気配を追い払った。
何か妙かね?」
「……別に妙ではないけど」
 しかし、それではあれは現のことではないというのか。
「夢のことだ、と思うね。現のことと思うには、余りに気配に取り止めが無さ
過ぎる」
 きっぱりとした応えに、野枝実は何となく友久のほうに視線を移した。
「多分、鬼李の見立てで間違ってはいないな」
「……でも」
 何を言いたかったのか。
 どう、言って欲しかったのか。

 冷たい指の残した、喉のまわりの痕。
 夢に傷つけられるほど脆弱な者だ、と。
 思われるのが、厭だっただけかもしれない。

「……野枝実?」
 ことん、と首を傾げて、覗き込まれる。野枝実は慌てて一つ頭を振った。
「いや、ともかく…聞きたいことがあって来たんだけど」
「何を?」
「夢見鳥って聞いて……何か心当たり無い?」
「夢見鳥? ああ、蝶のこと?」
 あっさりとした返事に、野枝実のほうが目を丸くした。
「知ってるの?」
「だってこれは言葉の定義だもの。広辞苑に載ってるわ」
 長い髪を真ん中で分けて後ろに流した女性は、ちょっと首を傾げた。
「それがどうかしたの?」
「どうかした、というか何というか……」
 久しぶりに訪れたアパート。本棚と机が幅を利かせた殺風景な筈の部屋は、
けれども部屋の主のおかげでかなりその印象を違えている。
 テーブルに肘を突いた野枝実の横で、小さな少女人形がことり、と首を傾げ
た。
「夢で、ね」
「夢に出てくるの?」
「あたしの、じゃないけど」
 悪夢の核。覚めない夢。その中心にいる何か。
「じゃ、誰の夢?」
「覚めない夢を見てるらしい人達。どうやらそれが悪夢らしくって」
 野枝実にしてみれば、請負仕事のことをあまりおおっぴらに話す訳にはいか
ない、という頭があるのだが……それにしても今一つ良く分らない説明では、
ある。
「でも……覚めない夢がいつも悪夢ってことはないんじゃない?」
「……それはそうだけど……でも、悪夢であることもある、ってのは確か」
「そっか」
 部屋の主、こと、平塚花澄は腕を組んで考え込んだ。
「……単に蝶が問題だっていうのなら、私も夢で見たことあるけど」
「え?」
「白い胡蝶を」
「……え?!」
 思い切り身を乗り出した野枝実に向かって、花澄は苦笑した。
「桜の下に座ってたら、ふわふわ飛んできたのよねえ」
「それで?!」
「……見てたら眠くなって寝てしまった」
 がっくりと、野枝実の上体がのめった。
「……花澄だなあ」
「残念ではあるのよ。夢の中で眠ると、結局起きてしまうんだもの」
「その蝶に襲われたとか、そういうことは?」
「全然無いわ」
 ふわ、と花澄は笑った。寄りつく悪夢もそうはあるまい、と、思わせるよう
な笑顔だった。
「……まあ、それはいいとして……手がかりにはならないか」
「夢見鳥を見つける、ってこと?」
「うん……早く見つけないと、こちらがおちおち眠れない」
「それは駄目だわ」
 捕らえどころのない微笑を浮かべていた顔が、きっと引き締まった。
「野枝実って何かに集中すると、答えが出るまではそればっかりになる人だっ
たわね……それじゃ困るじゃない」
「困るって?」
「私が心配。それでなくても心配の種はいっぱいあるのに」
 きっぱりと言うと、花澄はもう一度首を傾げた。
「……夢見鳥には、夢見草、かしらね」
「夢見草?」
「桜のことよ」
 何となく納得して頷いた野枝実には構わず、花澄は暫らく考え込んでいたが、
「よし」
と呟くと、目を閉じた。

 と。

 春の風。
 春の日。
 うららかな、のたりとした春の大気。
 花澄の周囲、半径3mに出現する春。いつもはごく自然に彼女のまわりにた
ゆたっているだけの春は、花澄が望むことにより、より強固なものへと変現す
る。
 春の結界は、古びた部屋一杯に広がった。
 頬をかすめて、薄淡い紅の光が飛び交う。
「……花澄?」
「聞いて」
 静かな声が応じる。
「聞く?」
「夢見草の音」
 さらさらと。
「夢見草の、音……」
 春の結界を、絶え間なく流れてゆく紅の光。
 桜の幻影。
 散る時を知り、潔いまでに零れ落ちてゆく、その残像。

『しづこころなく はなのちるらむ』

 幻夢泡影。
 儚く散ってゆくものの音。

 桜の、

  桜の幻の、

   桜の夢の………

「ほら」
 穏やかな声に、野枝実は目を上げた。
「野枝実と一緒なら、出来るか、と思ったの」
 微笑む顔に、桜が絶え間無く降りかかる。
「……って、これ」
「この桜、持っていくといいわ……いいかな?」
 最後の疑問符は、当の桜に向けてのものだったらしい。
 花澄が座ったまま、もたれている桜の巨木。鈍色の木肌は、うららかな春の
日にぼんやりと輝いている。白い、ほんのりと紅を含んだ桜の花が、ゆらりゆ
らり、と吹く風に揺れている。花澄が小首を傾げて尋ねた途端、その花が大き
く揺れたのは、見間違いではなかったろう。
「一枝、貰うね」
 すい、と立ち上がり、花を満たした一枝を折り取る。はずみで花弁が、光を
泡立てるように散った。
「……って、花澄、これどういう」
「野枝実は、聞こえない音を聞くでしょう? 私は見えないものを見る。
 二人でならば、夢を引っ張ってこれるかな、と思って」

 夢の界を、こちらの世界へ。かなりの荒業の筈なのだが、張本人はほわほわ
としたものである。
「これは」
「夢の桜。夢見鳥が寄ってくるかしら、と思って」
 ほら、と、促すように突き出された枝を受け取る。微かな重みがあるのが、
違和感を誘う。
「これ、花澄のまわりから出たらどうなる?」
「さあねえ」
 無責任ここに極まれり、と言いたくなるような答えである。
「でも今、この花はこちらの世界にいる訳だから、完全に消える訳では無いと
思うわ」
 桜の花は、絶え間無くほろほろと零れてゆく。が、不思議なことに、花は尽
きることがない。
「不思議な花だね」
「夢から来た花だもの」
 言いながら、花澄は小さな欠伸をかみ殺す。ぢい、と、一声鳴くと木霊の少
女はテーブルを横切り、 花澄の腕をゆすぶった。
「大丈夫よ、ゆず」
 にこ、と笑って返事をすると、花澄は一度目を閉じた。と、同時に眼底にい
ざる残像のように、春の光景が薄れてゆく。
 野枝実の手の中の、桜の一枝だけが残る。
「……ありがとう、花澄」
「どういたしまして」
 桜の花は、今は時折、思い出したようにはらりと散る。鈍色の枝は、やはり
ぼんやりと輝き、輪郭を周囲に溶かし込んでいた。
「それが散る前に、解決してね」
「うん」
「じゃ……ああそうだ、昨日クレープ焼いたの。晃一君に持っていってあげて」
 そう言うと、花澄は片腕に譲羽を取りつかせたまま立ち上がった。



幕間狂言〜夢現の橋


 ほろほろと、ピアノの音がこぼれる。
 ほろほろと、女の髪を伝って光がこぼれる。
 ほろほろと、夢の桜が花片をこぼす。

「蝶と少女と冷気と桜?」
 笑いを含んだ声で聞き返したのは、切れ長の目の印象的な女だった。
「はい……それに関わる事件か何か、最近無かったか、と思って」
「そこまでは、わかってきてるのね?」
 くすり、と笑ってカウンターの中の女が問い掛ける。
「……はい」
「で、どうするの?」
「少しでも……何か分かったら、何とかしようがあるかな、と……」
 思わず声が小さくなる。
「情報は力……ってとこ?」
「まあ、そうです」
 野枝実はこっくりと素直に頷いた。

 桜を探す蝶。
 桜を探す少女。
 
『桜、咲くね』

 桜を枯らしているのは、少女の冷気ではあるまいか……と、ふと思って野枝
実は苦笑した。
 あの少女が知れば、さぞかしぷんぷん怒るに相違あるまい。

 少女が現れたのは最近。
 勿論、それは、単なる偶発事なのかもしれない。目に見える出来事と関係な
ど無いのかもしれない。
 しかし……とにかく情報がないのだ。
 総当たりにでもぶつかってみるしかない。 

 長めのショートの髪を揺らして、狭霧は野枝実を見やった。
「それで、情報は出来るだけ早く欲しいのね」
「はい」
「報酬は?」
「……幾ら、でしょうか」
「そーね」
 グラスを軽く唇に当てて、狭霧は数秒考え込む。
「……お金、って無粋だから……そうね、体で返して貰いましょうか」
「体で?」
 きょん、として野枝実が問い返す。
 傍で見守っていた氷冴が吹き出した。
「でもさ、野枝実ちゃんにそれ言うと、友久に怒られそうではあるのよね」
「……だけど狭霧さん、要するに何かあった時手伝えってことですよね? な
ら、あいつが怒る筈がない」
「そう、思う?」

 含みありげに狭霧が覗き込む。
「はい」

 この一件、自分が氷冴から請け負った仕事だ。それにかたをつけるのに人に
手を借りる。その代価は己で何とかする。
 それは、当然のことだ。

「……からかい甲斐がない」
 ぽそっと呟くと、狭霧は透明な液体をあおった。

「せめて、その子の顔がわかればね」
「顔……」

 はて、と野枝実は首をひねる。
 いやというほど見た顔である筈なのだが、説明しようとすると、これは案外
難しい。

「顔? ……ああ」

 と、ひょいと手が伸びた。

「これ、あるわよ」
 差し出された一枚の写真を、二人が覗き込む。
「この子?」
「……はい」
「わかった。じゃ、氷冴姉さん、これ借りていっていい?」
「ええどうぞ」
「じゃ……野枝実ちゃん、明日の夕方にここで」

 言うと同時にかたりと立ち上がる。そのまま軽く会釈して出て行く狭霧を、
野枝実は黙って見送った。

「野枝実ちゃんは、何か飲む?」
「……いいえ」
「眠っては困る?」

 くすくすと笑って、氷冴は野枝実の方に屈み込んだ。
 ふわり、と香が漂った。

「……あの、氷冴さん」
「なあに?」
「先刻の写真は……」
「ちょっと手伝ってもらって……被害者の記憶からね、抜き取ったの」
「はあ」

 聞きたいことは、そういうことではない。
 ないのだが。

「もう少し早くここに来るかと思ってたんだけど」
「……そうですか?」
「力不足が努力と根性だけで何とかなるわけでもないでしょ?」

 ころころと、柔らかな笑みのわりに、言葉は鋭いものである。

「……もっと早く尋ねるべきだったんでしょうか」
「それを判断するのは私じゃないわね」

 あっさりと躱される。

 仕事をする、ということ。
 自分の無能を知り、その上で何をするか考えること。
 そう、分かってはいる。
 いる、のだが。

 言い訳ならば、幾らでもある。
 巻き込んでしまうような人など、居なかった。
 こんなことを聞ける相手も……一人を除き、いなかった。

 所詮は、言い訳である。

「そうですね」

 言い訳ならば、言うな。
 言い訳ならば、飲み込め。
 そう、教えてくれた人が、やはり教えてくれた……

「……氷冴さん」
「なあに?」
「青い月、ってカクテル……あります?」
「青……ああ、Blue Moon ね?」
「……多分」

 白い手が迷うこと無く動く。すいすいと流れるような動作の果て、目の前に
グラスが置かれる。
 青というより紫の酒を、野枝実は一口含み、呑み込んだ。
 幾つもの言い訳と一緒に。



第五章:夢呑夢


 ふわり、と、風が流れた。
 あれ、と、内心呟いて、晃一は辺りを見回した。
 
 風は緑の色を持つ。
 微かに水を含んだ、優しい風。
 頬をなぜるような。

『……だれか、いるの?』

 声を持たない子供は、夢の中でも声を持たぬ。

『だれか、いないの?』

 光がにじむような、緑の野原。
 その上を流れる、静かな風。
 優しい……ものがなしい風景。

『鬼李……?』
 
 いつも腕の中にいる影猫は、流石に夢の中にまではついて来ない。
 くしゃっと頭をなぜてくれる手も、ここにはない。
 
 何だか、さびしい。
 腕の中が空っぽで。
 視線の先も、やはり空っぽで。

『……だれか……』

 草の上に座り込む。ちくちくする筈の草は、しかし、鳥の羽根のように柔ら
かい。
 以前、落ちていた羽根を、鬼李と新が見つけて拾っていた。
 そんなことを、ふと思い出す。

 羽根。
 翼。
 飛ぶのは……鳥。
 そして、虫たち。

 ひらひらと、白い光に似た色が、目の前に舞った。

『……蝶?』

 白い、大きな蝶。
 大きな羽根をゆったりと動かして。
 風に乗るように。

『きれい……』

 視線の先で、蝶は大きく旋回し、ふわりと光を放った。
 光は拡大し、長く延び……そして少女の形となった。
 羽根を動かすように腕をふわりと動かし、草の上に降り立つ。

 ひやりとした冷気がまあるく膨らんで、晃一の髪を跳ね上げた。

『わ……』

 怖い、とも、不思議、とも思わなかった。
 所詮は、夢。
 と、少女が首を傾げた。

「あなた、だれ?」

 長めのお河童の髪が、すとんと肩からこぼれる。
 晃一より少し年上、だろうか。

『……晃一』
「ふうん?」

 白い、青白いような肌。大きな瞳。

「ねえ晃一、桜の夢って知ってる?」
『桜?』
「うん、ずっと探してるの」
『桜を? でも、今は咲いてないよ、桜』

 季節が違う。こんな時に桜は咲かない。
 鬼李と読んだ図鑑には、そう書いてあった。

「そうじゃないの。枯れない桜を探してるの」
『枯れない、桜……?』

 晃一はひたすら繰り返すばかりである。
 桜。
 その、本物さえ見たことが無いと言うのに。
 見たのは、夢の桜……

『……あ』
「え?」
『桜、夢の桜のこと?』
「知ってるの?!」

 身を乗り出した少女の、その勢いに多少たじろぎながら、それでも晃一は返
事をした。

『今日、野枝実お姉ちゃんが持ってきてた』
「……野枝実?」

 白い顔が、ふと、強張った。

「野枝実、と言ったわね?」
『うん……え?』
「野枝実、と、申したな?」

 少女の姿が、変幻してゆく。
 か細い、頼りない姿から……鬼女へと。
 晃一の足が、自然、一歩後退った。

『……どうして?』
「え?」

 ふと気がついたように、鬼女は一度瞬きをした。
 と、その姿は一瞬にして元の少女に戻った。 

『どうして、野枝実お姉ちゃんを……』
 知っているのか、そして嫌っているのか。
 そう聞こうとした晃一の機先を制するように、少女はぶん、と一つ首を振っ
た。
「あのひと、嫌い」
 つん、と高くあげられた顎の線が目に付く。
「あのひと、あたしの夢、壊したんだもの。せっかく一杯奇麗な紅葉作ったの
に。壊しちゃったんだよ」
 ね、ひどいよね、ひどいでしょ、と、握り拳で少女は言い募る。
『……でも』
 野枝実。口が悪かろうが、態度が無愛想であろうが、とにかく彼女は晃一に
とっては大事な『野枝実お姉ちゃん』である。ひどい、と言われて、はいそう
ですか、と頷く訳には行かない。
『でも、野枝実お姉ちゃん……いい人だよ』
「やな人だわよっ」
 あくまで並行線を辿りかねないやりとりは、しかし少女のほうから打ち切ら
れた。

「晃一は、野枝実を知ってるのね?」
『うん』
「野枝実は、晃一を知ってるのね?」
『うん』
「ふうん」

 細い首が、ことん、と横に倒れる。口元に微妙な笑みを浮かべて、少女は晃
一を横目で見やった。

「あのね、野枝実に言ってくれる?」
『何て?』
 うふふ、と笑うと、少女は晃一の顎に手をかけた。
「桜、咲かせたいの。だから死体がいるの。あなたじゃなかったら晃一を貰う」
『……え』

 後ろに下がろうとして、出来なかった。
 少女の細い手は、吸い付くように彼の顎から離れない。
 白い、白い手。
 手は、ひんやりと冷たかった。

「そう言えば、わかると思うの。
 だから……そう、伝えるのよ」

 蒼い火の浮かぶような瞳が、晃一のそれを見据えて離さない。

『……誰?』
「あたし?」

 それでもその顔は、透きとおるように無邪気なものだった。

「あたしは、夢見鳥」

 たん、と全てが落下した。


「!」

 跳ね起きた晃一の枕元で、鬼李もまた跳ね上がった。
「どうした、晃一?」
『……野枝実お姉ちゃんは?』
 泣きそうな顔で鬼李を見る。視線の先で影猫は長い尾を一振りした。
「何があった?」
『お姉ちゃんは?』
「ここにいるけど?」
 いつのまに帰っていたのか、机に肘を突いて本を読んでいたらしい野枝実が、
本から目を上げていた。
「何があったの?」

 何かを言いかけて、晃一はぴたりと動きを止めた。

「晃一?」
 その様子に、野枝実は慌てて本を閉じた。布団の上で座り込んだ少年の方に
近寄る。
「どうしたの?」
 伸ばされる手は、暖かい。
 その暖かみに押されるように、涙がこぼれた。
「……晃一?」

 さくら、さかせたいの。
 だから、したいがいるの。
 あなたじゃなかったら、こういちをもらう。

 でもそれは、野枝実を貰う、ということではないか?
 野枝実の死体を貰う、ということ……?

「晃一」
 不意に、すとんと鬼李が膝の上に乗っかった。
「夢を、見たね」
『……うん』
 黄金造りの、鈍く光る目。
「でもそれは、夢だろう?本当のことじゃない筈だよ」
 そっと、鬼李の前足が促すように晃一の手を叩く。
「だから、大丈夫。言ってごらん」
『……大丈夫?』

 本当に、あれは夢だったのか。
 本当に、あれは夢でしかないものなのか。
 
 戸惑って見上げた視線が、野枝実を、そして壁際に座り込んでいた友久を捕
らえた。
 少し心配そうな、けれどもいつものままの。

『……あのね、女の子に会ったの』
「ほう?」
『真っ白な蝶が飛んできたの。それが女の子になって』
「女の子に?」
『うん』
 晃一の手が鬼李の背中にのばされる。
 黒い毛並みは、暖かくて柔らかい。
『桜、知らないか、って聞かれた。野枝実お姉ちゃんが持ってるって言ったら、
お姉ちゃんのこと、嫌いって言ってた』
「その意見には賛同するね」
「やかましい」
 いつものやり取り。それは既に言葉遊び。
『で、お姉ちゃんに伝えてって。桜、咲かせたいのって。
 だから死体がいる、あなたじゃなかったら晃一を貰う……って』
「……ほう」
 黄金色の瞳が、二、三度瞬いた。
「どんな女の子だったんだい?」
『細くって、白い子。手が冷たかった。……あとね、怒ったら鬼みたいだった』
「おやおや」
 しゅるん、と一つ、鬼李の長い尻尾が晃一の腕を撫でる。
「女性に関する一面の真理を、その歳で知る必要もあるまいに」
『?』
「鬼李!」
 野枝実の声に鬼李は喉をくるくると鳴らしながら黙り、晃一は目をぱちくり
させた。
「何でもないの……でさ、晃一、その子何て名前?」
『夢見鳥』

「……それは」
「典雅な名前だな」
 小さく呟いた野枝実の言葉を、鬼李が分捕った。
「で、野枝実を貰う、と言ったのかね」
『うん』
 記憶。何故か怖かったこと。
 笑い混じりの鬼李の声を聞くうちに、それがだんだん夢になる。
 夢の中に固定される。

 あれは、夢。

『……寒かった』
「え?」
『何だか、夢の中で寒かった』
 夢見鳥と名乗った少女。彼女から僅かずつ、しかし確かに流れてくる冷気。
「寒かった……って、その子の所為で、かな?」
『うん。その子から寒い風が少しだけ吹いてた』
「何だかごたごたした夢を見たんだね」
『……変、かな』
「夢は変なものと決まっている」
『うん』

 変な……夢。
 それでもそれは、只の夢。
 晃一は一つ欠伸をした。

「……大丈夫?」
『うん』
 頷きながら布団に潜り込む。するりと鬼李が腕から抜け出し、晃一の枕元に
移動した。
「じゃ、おやすみ」
『おやすみなさい』
「今度は変な夢見るなよ」
 いつものように友久の手がくしゃりと髪をかき回す。
『……うん』
 悪夢を祓う呪いのように。

 そのまますうすうと寝息をたて出した晃一の横で、野枝実は唇を噛み締めた。
「どうする」
「……どうも、出来ない」
 不甲斐なさで、目の前が歪む。
「勝算は」
「……明日」
「狭霧に会ってから、か」
「……うん」

『力不足が努力と根性だけで何とかなるわけでもないでしょ?』

 それは、鋭いほどの事実。
 泣きたいほどに……

「で、それまでどうする気だ」
 のんびりとした声のどこかに鋭いものを含む問い。
 野枝実は微かに笑った。
「眠るわけにはいかない……な」



第六章:夢天秤


「引っかかったわよ、この子」
 グラス越しに、狭霧が笑った。

 夕刻、FROZEN ROSES。
 カウンターの向うの美女が、小首を傾げて野枝実を見やる。
 つられるように、野枝実も首を傾げた。

「と、いうと?」
「この子。今年の春に事故で死亡してる」
「死亡、ですか」
 驚きは、しなかった。その可能性は既に意識の何処かにあったのだろう。
「どんな事故で」
「母親と遊んでいる間に、食肉業者の冷凍庫に迷い込んでそのまま凍死……っ
て」
 思わせぶりに言葉を切って。
「公式には報告されているみたいだけどね」
 野枝実はきゅっと眉を顰めた。
「……つまり?」
「保険がね。結構掛けられてたわ」
 ほら、と差し出された紙の束を受け取り、目を通す。
 一番上に、ひどく粗い粒子でかたどられた少女の顔。

『……桜、咲くね』

 ひどく明るい……ひどく無邪気な声。

「春……ってことは、桜の季節ですか」
「そう」
 グラスの中には、淡い緑の酒。それを一口すすって。
「蝶、ってのは見つからなかったわ。こちらも少し急いでたんで」
「構いません」

 春のさなかに、凍死した少女。

『桜……今度こそ、咲くね』

 嬉しそうな、声。

「では……あの少女は、死んでいるんですね?」
「そうなるわね」
「夢の外には、実体が無い、と」
「まあ……春から今まで、では」
「……そうですね」
 言葉を濁す。

「で、勝算は?」
「……」

 夢の外に、実体を持たぬ少女。
 それを、夢の外に追い出すことが出来るとするならば。
 追い出し……無力な存在へと変幻させることが出来るならば。

 相手は夢。
 夢幻泡影。
 儚いものの、その筆頭に来る存在。

「どうすれば、いいのかな」

 無意識のうちに呟きながら目を閉じる。
 目を閉じ、耳を澄ます。
 心を、澄ます。


 …………ふと。
  記憶の中から、浮かび上がる
  それは、破片。


     …… 我、夢に胡蝶となるか
        胡蝶、夢に我となるか

   その言葉が、からからと組み合せを変えた。

          少女、夢に胡蝶となるか
          胡蝶、夢に少女となるか……


「………!」

 不意に椅子を大きく後ろに押しやって、野枝実は立ち上がった。
「野枝実ちゃん?」
「ちょっと……失礼します」
 不審げな声を聞き流して、そのまま一礼する。
 意識野に、ぎりぎり引っかかったもの。まだ、明瞭な形とはならず、あくま
でぼんやりとした霧のようなもの。恐らくは、言の葉にすれば、また崩れてゆ
くだろうもの。
「失礼します」
 たん、と、足元の影を蹴る。
 そのまま野枝実の姿は、影の中に消えた。


 というわけで。
 夕刻、数人の客の入った本屋瑞鶴のレジの前で、悲鳴を噛み殺す一名がいた
りする。
「…………のっ」
「ごめん」
 微かな声。そして影から延びる白い手。
「……倉庫にまわって」
 瞬時にして状況を判断し、静かにそう言う。そして表情を元に戻し、ごく自
然にレジの前を離れる。
 ……伊達に厄介者の家庭教師をやっていたわけではないのである。


「どうしたの?」
「花澄、聞きたいんだけど」
 非常事態であることは分かる。手短に尋ねた花澄に、切羽詰まった口調で野
枝実は問うた。
「あたしの夢は、あたしの自由になる?」
「………」
 少し首を傾げて、花澄は相手を見やった。
「自由に、なる?」
 下手をすれば見つかるかもしれない危険を冒してまで、聞く必要のある問い、
とは思えない。
 思えない、のだが。
「そりゃ、なるでしょう」
 本当はどうか、などとは花澄は考えなかった。
 目の前の娘のことは良く知っている。そしてこの場合、彼女が何を求めてこ
こに来たのかも、何と無く分かる。
「あなたの、夢だもの」
「……そう」
 幾分かほっとした顔で野枝実は呟いたが、またすぐに顔を上げた。
「胡蝶、夢に我となるか、我、夢に胡蝶になるか、って……」
「言うわね」
「本当かな」
「うん」
「どっちが?」
「どっちも」
 響くように答えを返してから、花澄はくす、と笑った。

「何か、思いついたのね」
「うん」
「夢の、話?」
「うん」
「じゃ、それは本当になるわ」

 夢幻泡影。
 たかだかの夢の一つや二つ。

 夢は現実と化す力を持つというならば
 現実さえ変えうる人間が、夢を変え得ぬ筈も無し。

「大丈夫。あなたの夢はあなたのもの」
 己の役割は単純である。ぼんやりと野枝実の内部で形を取りかけているある
着想を肯定し、そのまま形と成す手伝いをすること。
 崩れゆくか、それとも凝って顕現するか。
 その線上にあるものを、そっと片手で押すだけのこと。

「大丈夫」

 す、と、野枝実は視線を上げた。
 上げて……笑った。

「ありがと」

 そのまま、彼女の体は、また影の中に没した。
 ふう、と、一つ、花澄は溜息をつき、首を傾げた。
 その動きに応じるように、閉じられている筈の倉庫の中を、細い風が一筋よ
ぎる。
「夢は、全て現実とも為りうるもの……よね?」
『そう、言ったな』
「なれば……私の夢も、本当になるのかしらね?」
『どのように?』
「あの桜がね」
 小さく、花澄は笑った。
「あの子を、護ってくれるように」

 本来、これは、約定に違うこと。
 けれども……それでも、護りたい存在。

『お前の夢は、お前が左右するもの』
「……そうね」
『我等の出る幕でもないようだ』
 苦笑に似て。
「大丈夫よね」
『大丈夫だろう』
 耳元で微かに鳴る風の声。それに被さって、おい花澄、と呼ぶ声。
「あ、はい今行きます」
 返事と一緒に、花澄は踵を返した。



第七章:夢紡夢


「こちらから、仕掛けてみる」
 手の中の桜の枝を弄びながら、野枝実はきっぱりとそう言った。

 夕刻。食事の用意をすませてから、野枝実は部屋の隅の壁にもたれかかった。
 友久は居ない。晃一を迎えにいったところだ、と鬼李は言った。
「勝算は?」
「ある」
「やけに自信満々なことだ」
 揶揄するような声に、野枝実はやはりきっぱりと答えた。
「大丈夫だって、言われた」
「誰に」
「花澄に」
 影猫が小さく溜息をついた。
「言っていいか?」
「言うな」
 ぱしん、と、鋭い声に、鬼李は小首を傾げた。
「あたしの夢はあたしが選ぶ」
「………」
 金色の目が、相棒の目を見据える。暫らくして発した声は、不思議と安堵の
響きを帯びていた。
「ああ、成程」
 軽く呟くと、黒い猫はくるりと黄金の色の目をまたたかせた。
「で、相手の正体は?」
「多分この子。名前は長瀬桜子」
「桜の子……か」
「多分、だけどね」
 素っ気無く応えてから、野枝実は少し困ったように首を傾げて影猫の姿を見
やった。
「あんた、この枝持てる?」
「持つ?」
「こっちが寝てから、これをあたしの頭の中に入れて欲しいんだけど」
「……ふむ」
 はらはらと花片を散らす枝を見上げてから、鬼李はとん、と、野枝実の膝に
飛び乗った。そのまま枝を咥えよう……として。
「?」
 枝は、すとん、と落ちた。
「鬼李?」
「ああ、これは駄目だ」
 言う内容の割に、口調は落ち着いたものである。
「私ではこの枝、触れることも出来ないらしいね」
「……何故?」
「夢の桜、だろうこれは」
「うん」
「影は、夢を見ないからね」
 突き放すような口調であり、声であった。
「……頭に乗っけといたら、入るかな、これ」
「あと少し待てば良かろうに」
「…………」
 それが厭だから、と、流石に口に出しては言わない。恨めし気に見やった視
線を影猫はするりと受け流した。
「晃一が心配するぞ」
「させたくないから、さっさと」
「ほう、部屋の隅で転がってるのを見て、どう安心すると?」
「……いい、もう」
「よくはない」
 金の目がじっと睨み据える。居心地悪げに野枝実は身じろぎした。
「野枝実、お前と晃一とではどちらが人がいい?」
「そりゃ、晃一でしょ」
「じゃ、友久とお前では」
「友久」
「ならばお前が友久を案じたくらいには、向うもお前のことを心配するだろう
と、何故思わない」
「……っ……」
 畳み込むように言われて、野枝実はきゅっと唇を噛んだ。
「違うか?」
「……別に、心配したわけじゃ」
「なかったか?」
「…………恐かった、けど」
 後はもごもごと、口篭もってしまった野枝実の膝の上で、鬼李が丸くなった。
「あと少し。待つくらい出来るだろう」


 結局、晃一が寝付くまでは動きが取れなかった。
「それで」
「夢を、こちらから仕掛ける」
「どうやって」
「どうせこちらが見るのは悪夢だから」
 繰り返し見る悪夢。押し流され、何方へとも判らぬ処へと迷い行く夢。
「だから、あたしごとあの子を押し流す」
「何処へ」
「夢の外へ」
 流石に虚を衝かれたように友久が黙る。代わりに尋ねたのは鬼李だった。
「可能かね」
 口元を引き結ぶと、野枝実は一つ頷いた。

   胡蝶、夢に少女となるか
   少女、夢に胡蝶となるか………

 夢は全て現実とも為りうるもの。
 自分の夢の中の『常識』が、この現実にも敷延できるか否か。

「……白い胡蝶……多分揚羽くらいの蝶が出てきたら、あたしの勝だ」
「出てこなければ」
「桜が咲くってさ」
 夢の中に咲き誇る、桜の木。
 結末としては悪くないのかもしれない。
 現世に敷延しても……自分の結末としては恵まれているのかもしれない。
「桜の下には、死体が埋まってるそうだしね」
「……情けないことを言うなあ」
「勝算が無ければやらない。あるからやる」
 ぱしん、と、叩きつけるように言うと、野枝実はぼんやりと霞む桜の枝を、
友久に差し出した。
「手伝ってもらえるか?」

 眠り込んだ野枝実の額の上に桜の枝をかざすと、それはそのまますう、と、
手応えもないまま額の中に滑り込んだ。
 手伝い、と、いうほどのこともない。
 けりがつけば起きる、と、野枝実は言った。こちらが起きたとき、もしそっ
ちが寝ていたら、起こすかもしれない、とも。
 つまり、一切手を出す隙はない。
 ころんと手足を丸めて、野枝実は眠っている。悪夢を見ると言った割には穏
やかな寝顔だった。
「さほどの時間はかかるまいよ」
 ぽつりと言った鬼李の言葉に軽く頷くと、友久は壁にもたれかかるように座
りなおした。鬼李はその横でくるりと丸くなる。
 暫くの沈黙を、ぼそりと破ったのは友久のほうだった。
「ガキでない分始末が悪い」
「……」
 続きを待つように鬼李は小首を傾げたが、それきり友久は何も言わなかった。
 野枝実は眠り続けている。


 するすると夢を手繰り寄せ。
 するすると悪夢を手繰り寄せ。
 夢を紡いで手繰り寄せ。
 夢紡ぐ夢を手繰り寄せ。

  頼りはほそうい夢の糸…………

 ふいと、その糸が途切れた。

 すとん、と、急行直下で、眠りの中に落ち込んでゆく。
 もうすっかり見慣れた薄淡い蒼の壁が辺りを取り巻く。
 きしきしと歯の奥がきしむような音をたてて、野枝実は悪夢の底に降り立っ
た。
「……さて?」
 さして待つこともなく、ふわりと中空から桜の枝が落ちてくる。それを受け
取り、足元に差し込む。二の腕程の長さの枝は、しかし、夢に根づいた途端、
すう、と高く伸びた。
 はらはらと、花片が落ちる。
 はらはらと、花片の影が、薄淡い蒼の壁に、まだらに映り込む。

 ひう、と、冷たいものが一筋、野枝実の髪をかすめて抜けた。

「来たね」
「来たわよ」

 白い揚羽が、目の前にそよぐように浮いていた。見る間にその姿は伸び上が
り膨らみ、見慣れた少女のそれへと置き換わった。

「桜……」
 あどけなくも見える笑顔が、その細い顔に浮かぶ。
「桜、咲いてるのね」
「それがどうか?」
「桜、咲き続けるのね」
「そうはいかない」
「咲き続けますとも」

 笑顔が、深く……どす黒い色に染まった。
 ざわり、と、黒い髪が小さな顔の周りにたなびく。

「あなたが、咲かせてくれるでしょう?」

 咄嗟に飛びのいた野枝実の足元に、細い糸が流れた。
 きらきらと、それは淡い光を放っている。
「……これで、縫い止めたな」
「夢の、主をね」
 くすくすと笑いながらも、少女は細い手をひらひらと動かす。
 同時に野枝実は足元の桜の影を掬い取っていた。たなびく糸の流れをそれに
からめ、巻き取ってゆく。
 糸は、ほろほろと千切れていった。

「……ふうん」
 さして意外そうでもなく少女は笑った。
「その桜、やっぱり欲しいな」
 細い腕をすいと横に伸ばし、一振りする。

 からころと、音。

「……っ」

 少女の手に何時の間にか握られた、木の鈴。それがからころと音を立てる。
 朴とつとした快い音は、しかし視野をからころと砕いた。

 砕かれた隙間から、溢れ出る……
 ……記憶?
  
  『ここは寒いね』
  『どんどん寒くなるね』
  『どんどん眠くなるね』

 ざん、と、視界をうねる糸が薙いで走った。
 危ういところで野枝実は跳ね飛んで避けた。
 からころと、音。

「逃げられる?」

 重なる、夢。
 少女からたなびくように流れる、糸。それは一本また一本と確実に野枝実の
体を捉え、絡み付いている。その痛みは確かだというのに。
 重なるように、音は絶え間無く響く。
 重ねられた夢が、からころと響き合ってゆく。

  『ねえ、ちょうちょさん、眠くなったの』

 少女。
 目の前にいる筈の……しかし、その表情だけは全く異なる。
 白い、細い腕。まだふっくりとした指がそれに繋がって。

  『ちょうちょさんも、眠い?』

「……あんた……は」
 言葉を発することさえ、泥のような重みに逆らわなければならない。
 発した言葉は、どこかに吸い取られてゆく。
「……桜子じゃ……ない?」

 ききっと、高くきしるような笑い声が脳裏を裂いた。

「あたしは、夢見鳥」

  からころと、音。
  夢に誘う、音。

  夢の中に夢を重ねる。
  繭の中に繭を重ね、眠るさなぎのように。

   脱皮の回数は決められている。その規定回数を狂わせると、幼虫はさな
   ぎへと繰り返し姿を変え、その中で朽ちてゆく。蝶に孵ることを忘れた
   ように。

    朽ちてゆく。重ねられた繭の中で。
    朽ちてゆく。重ねられた夢の中で。

     眠い…………


      と。

     いつのまにか閉じた瞼の裏に、薄紅の破片が舞った。
     ずっくりと、泥のように周囲を満たした闇の中を、軽やかに。

    桜?

   目を、開く。深く閉じられた筈の夢の繭の中に、どこからか入り込み、
   降り注ぐもの。

   桜。

   ふと、笑い顔が脳裏に浮かんだ。
   白い顔は笑んだまま、静かに口を動かした。
   『あなたの夢は、あなたのもの』

  では、この夢も。
  泥のように重い、この夢も。
  泥のようにあたたかな、この夢も。

  『あなたの、夢だもの』

  動かそうとして、腕が動かないことに気がついた。夢に腕を取られ、絡み
  付かれている感覚。
  何かが、体中に巻き付き、自由を奪っている。
  逃げなければ、と思う。その思いさえ、夢の重みに潰されかけ……て。

  『あなたの、夢だもの』

  あの時、何と言ったか。

  『大丈夫』

  潮のように言葉が満ちる。
  満ちた腕から乾いた泥のように夢が剥がれ落ちる。
  視界に、桜。
  伸ばした手に、銀の輝線を描いて、細い枝が収まった。
  その微かな線をなぞるように、野枝実の腕が動いた。

「………っ!」
 腕にかかる手応え。それと同時に己を縛めていたものがほどけてゆく感覚。
 野枝実は、目を開いた。
 黝く砕けた、夢の残滓。名残だけが淡く光る、夢の糸。
 その向うに、青ざめた少女の顔。

 ほろ、と、野枝実の背後の桜が花片を落とした。

「貴様………」
 まだ、どこか幼い顔が、ひどく歪む。
「貴様ぁっ」
 ざあ、と、少女の髪が長く揺れた。
「あたしの夢を壊したねっ!」
 肩のあたりで揺れていた髪が、瞬時にその長さと量を変え、野枝実に向かっ
て延びる。
「……よく言う」
 呟くと同時に野枝実が右腕を大きく振る。桜の枝が髪を払う。同時に少女の
足元に落ちた黝い影がぬうと延び、本体によじれてからみついた。
「なっ」
 細い手が影を薙ぐ。残像が影を切りおとしたかに見えたが、次の瞬間落ちか
けた部分は残りの影に取り込まれた。そのまま真っ直ぐに少女の足へと延びる。
「このっ……!」
 白い手から白い炎が延び、影へと放たれる。そのまま手は空を薙ぎ、野枝実
の方へと炎を飛ばす。
 蹴りつけた足元から浮き上がった影が、それを防いだ。
「……なんでよっ!」
「あんたは確かに夢を操るんだろうさ」
 拳を握り締める少女に向かって、野枝実は淡々とそう言った。
「でも、これはあたしの夢だ」
「それがどうしたのよ」
「だから、あたしが決める」
「……あなたが?」
「あたしの夢は、あたしのものだ」

 確信。
 根拠など要らない。ただ、確信するだけ。
 そう、信じるだけ。

「だから、この影はあたしが動かす。夢の常識はあたしに従う」

 真っ直ぐに少女を見て。

「だから、あんたが、この勝負負ける」

「……誰がっ!」
 少女の目が、くわっと見開かれた。ざあ、とまた髪がうねる。
「誰が、そのようなこと許すものかっ!」
「許すも許さないも」
 目は、逸らさない。
「あんたが負けるだけだ」
「……どうやって」
 ふと、少女は口元を歪めた。
「あんたが動かすのは、影。あんたに出来るのは、せいぜいあたしの真似じゃ
ない。あたしがやる事を真似るだけじゃない!」
 少女の表情を写すように、野枝実の口元にも歪んだ笑みが浮かんだ。
「そう、思うか?」

 夢。
 幾度も見た夢。
 潮が満ちるにも似て………

「?!」
 視界を満たしていた髪。それが瞬時に色を変える。
 やはり黒味を帯びた紅の色へと。
「なにこれっ」
 ほぼ同時に、そこから赤い波が吹き出すように流れてくる。だくだくと、流
れ来る波は少女の白い肌を汚した。
「……畜生っ」
 少女の叫びと同時に、流れは一筋になって野枝実の頭上を直撃し……かけて。
「させるかっ!」
 足元に蟠る、やはり黒味を帯びた紅の色の影を操り、少女の腕を捕らえる。
そのままぐい、と、野枝実は少女を宙からひきずり下ろし、そのまま腕に抱え
込んだ。
「放せえっ!」
 叫びと一緒に、至近距離から光が無数に放たれる。
 左目が……火をぶち込んだように痛んだ。
「……放すかっ!」

 流れ。
 影は、異界への通路。
 何方とも知らず、流されゆくのみの……

 何時の間にか、赤い流れは、二人の肩まで達していた。
「い、やあっ」
 どこかぬめりのある、そして金属に似た臭気を持つ赤い流れ。
「はなしてっ!」
 少女の……悲鳴。
 そして、自分自身の、胃の冷えるような恐怖。
 切れるほど唇を噛み締めて、野枝実は腕に抱えた少女ごと流れの中に沈んだ。

  影は異界への通路。
  夢から、異界へ。
  夢から……現実へ。
  それもまた、確かに異界。
 
  現実へと流れる波。
  そうであれかし、と、願い…………
  しかし、同じ重さで、それを疑っている。

   ドコニ、ユクノ?
   コノ夢ハ、ドコニ続クノ?
   ホントウハ、ドウナルノ?

  腕の中の少女がもがく。
  その動きに、跳ね飛ばされそうになる。

   流レテ、ドウナルノ?
   流レテ………ドコニユクノ?
    ドコニ?

「……畜生っ!」
 叫んだ野枝実の脳裏に、ふと、蒼い光が流れた。
 ああやさしいひかりだ、と、ふと思った。

  かすかな、こえ。

          少女、夢に胡蝶となるか
          胡蝶、夢に少女となるか……

 だあん、と、叩き付けられるような重い衝撃に、野枝実の意識はそこで途切
れた。



第八章:胡蝶残夢


 すい、と、鬼李が首を伸ばした。
 動きに呼応するように、友久が身を起こす。視線の先の顔は、不意に苦痛に
歪んだように見えた。
 その、左目から。
 ほろ、と、淡い紅の影がこぼれた。
 目尻を伝ってそのまま落ちるかに見えたそれは、寸前でふわりと浮き上がり、
すう、と裂くように二つの影に分かれた。

 片方は、白い……燐光を放つような蝶。
 片方は、紅い……静かな闇に沈むような蝶。

 二色の蝶は、ひらひらと宙を舞った。

「……友久」
「白い蝶のほう、か」
「恐らく」

 声に反応したように、白い蝶がふわんと高く浮き上がる。何処かへ飛ぼうと
したらしい蝶は、しかし、不可視の壁にぶつかったように中途で勢いを無くし、
そのままはらはらと落ちた。
 それを、待ち構えていた鬼李がはくり、と咥え……かけたところで。
 紅色の蝶が、ふわり、と鼻先をかすめた。

『殺スナ』
「……野枝実?」
『殺スハ我任ニ有ラズ』

 虚を衝かれた鬼李の目前を、白い蝶が落下する。そのまま眠り続ける野枝実
の額に止まり……そしてまた、宙に浮き上がった。
 慌てたように、部屋中を飛びまわる。

『我任ニ有ラズ』

 紅色の蝶は、一度くるり、と、宙を舞った。
 そして、鬼李の頭上に止まった。
 何かに躊躇うように……何かに戸惑うように。
 緩やかに、紅色の羽根が上下した。

「戻れ」
 ぴたりと、その羽根の動きが止まった。
「野枝実」
 声に、蝶は微かに羽根を震わせた。

 『我モマタ、夢ニ人トナルカ
  我モマタ、現二蝶トナルカ』
  
   どっちが本当?


「寝ぼけたこといってんじゃない」
 叩き付けるような口調と、声。
「戻れ」
 ふわん、と紅色の蝶は宙に浮いた。友久の目元をかすめるように一度だけ飛
ぶと、そのまま出てきた場所……野枝実の左目へと舞い戻り、留まったと同時
に煙のように掻き消えた。
 と、同時に野枝実の目蓋が動いた。微かに震え、ゆっくりと開く。そのまま
暫くぼんやりと天井を眺めていたが、やがてゆるりと視線を動かした。やはり
どこかぼんやりした声が、ぼんやりとした問いを紡いだ。
「………蝶は?」
「そこに」
 鬼李の金の目が、天井に向けられる。はたはたと、白い蝶は視線の先で、繰
り返し天井にぶつかっている。まるでここから逃げ出そうとでもするように。
「……おいで」
 ゆるやかな、途切れることの無い動きで野枝実が上半身を起こす。そのまま
差し伸べられた手の先には、何時の間にか先程の桜の枝がある。
 はらりと、散る花片のように、白い蝶が桜の枝へと落ちた。
「……連れていかなきゃ」
 蝶が止まったのを見定めると、野枝実はまたふう、と身を起こした。残像が
後を追うような、奇妙に滑らかな動きだった。
「……野枝実」
「なに?」
「お前……まだ眠ってないか?」
「眠ってないよ」
 普段だったらぴしんと飛ぶ筈の答えが、どこかゆるりと波打つように放たれ
る。
 眠ってるな、と、鬼李が小声で呟いた。
「眠ってないよ……でも」
「?」
「どっちが本当?」
「とは?」
「我、夢に蝶なるか……でも、現でも蝶になった」
 二度、野枝実は瞬きを繰り返した。淡い光の具合でか、硝子玉に似た瞳がじっ
と友久を見やった。
「どちらが本当?」
 と……
 もう一度瞬いた左目から、紅い色の糸がすうと流れた。いや、糸ではなく、
「野枝実、目!」
「へ?」
 鋭い声に、思いっきり間の抜けた返事をしておいて、野枝実は軽く目をこすっ
た。
「ああ……これ」
「傷か?」
「夢の残滓」
 茫洋とした答に、後の二人が思わず顔を見合す。
「つれてきちゃった」
 ぽつんとそれだけ言うと、野枝実は頭を振った。ぼんやりとした目が、よう
やっといつものきつい光を帯び始める。
「……氷冴さんのとこに、いかないと」
「今か?」
「今」
「……途中で眠るぞ」
「眠らない」
 どこにそんな根拠がある、と言いたくなる答えを、これまたえらく確信を持っ
て答えたものだが。
「信憑性に欠ける」
「どこが」
「どこが欠けてない?」
 意地の悪い笑みを浮かべて、問い返す。野枝実はきゅっと唇を噛んだ。
「……でも、これを今晩ここに置いておくわけにも行かない」
「危険か?」
「……多分ね」
 鬼李の声に頷くと、そのまま立ちあがり、玄関に向かう。
「今なら、持ってゆくのも危険だな」
 野枝実はむっとしたように立ち止まった。
「……大丈夫だって。影を渡れば直ぐだ」
「ああ、それはよしたがいい」
 答えたのは鬼李だった。
「何でよ」
「私はその桜を持てなかったからね」
 金の目の猫の言葉は、しかし非常に理に叶ったものであった。
「それを影の中に持ち込むのは……止めたがいい。危険だ」
「………うん」
「だから、歩いて行くしかないだろう?で、途中で眠り込まないと言い切れる
のかね?」
「…………うん」
 返事が遅れるあたりが正直である。
「駄目だこれは。……友久」
「何だ?」
「一緒に行ってやってくれないか?」
「ちょっと鬼李!」
「……言うがね、野枝実」
 面白そうに眺めている友久の視線の先で、悠々と鬼李は応じた。
「自分のことで済めばいい。でも、その蝶は、晃一の夢にも入ってきたことが
あったんじゃないかね?」
「……」
「あんたが、万が一にも眠り込んで、その蝶が晃一の元に戻ってきたら?」
「…………」
「というわけだ。申し訳ない、友久。私では野枝実が眠っても起こせないんで
ね」
「…………っ」
 意地の悪い笑みを浮かべて、友久が頷く。この場合、鬼李の依頼と野枝実の
悔しそうな顔、どちらが効き目があったか知れたものではない。
「行こうか」


 で、結局のところ、鬼李が正しかったことになる。
「……あらら」
 氷冴に桜の枝ごと白い蝶を渡し、一件の説明をするまでは、野枝実もちゃん
と起きてはいた。氷冴がカクテルを一杯渡すまで、時折目をこすりながらでは
あったものの、きちんと起きていたのである。
 ………が。
「熟睡、ね」
 カウンターの前の席に、野枝実は突っ伏している。氷冴が手を伸ばし、とん、
と額を突ついても、反応さえしない。
 ひどく安堵したような表情だった。
「可愛いこと」
 くすり、と、氷冴が笑う。
「ね、お師匠様?」
 返事を割愛して、友久は野枝実を背負った。くてん、と、袋かなにかを背負っ
ているような、頼りない感覚があった。
「その蝶は?」
「こちらで処理するわ。大丈夫って野枝実ちゃんに伝えてね」
 くすくす、と、笑いながらそこまで言って……ふと、氷冴は小首を傾げた。
「あら?」
「どうした」
「…………いいえ」
 暫しの沈黙の後、氷冴はほんのりと笑って首を振った。人懐こい笑みのまま、
彼女は言った。
「良い夢をね、野枝実ちゃん」


 夢を、見ていた。
 静かな、夢だった。
 以前見た少女が、静かに座り込んでいた。
 
「……あんたは」
「桜子」

 すう、と少女は視線を上げた。綺羅らかな、大きな瞳が野枝実のほうを見上
げた。

「おねえさん、ありがとね」
「え?」
「ちょうちょさんを、ありがとね」
「ちょうちょさんを……って」

 ひどく苦いものが、表情に溢れたに違いない。少女がはっとしたように首を
振った。

「あのね、ちょうちょさんをね、おねえさん止めてくれたから……良かったの」
 
 細い手。細い足。頬も喉元も、こけるように細い。

「あのね」

 その中で、瞳だけがとくりと生を刻んでいるように見える。

「ちょうちょさん、桜子の為に、桜を探してたの」

 白い、青白いような顔。
 それを中心に、とくり、と世界が廻った……………


 あのね。
 桜子ね、知ってたんだよ。
 桜子ね、本当は一人であそこに入ったんだよ。

  (なんのやくにたつんだあんながきがかねにもならねえうるにもうれねえ
   ようなこどもじゃないかめしだけかねだけかかるだけむだなこどもをど
   うしておれがやしなうんだおれのこどもでもないごくつぶしが)

 おとうさんが怒るとね、おかあさんは泣いてたの。
 その次の日にね、必ず桜子怪我したり、車に轢かれそうになるの。
 あの日もね、おかあさん、泣いてたんだよ。
 だから。

   (さくらこちゃん、かくれんぼしましょ)
   (おかあさんがね、おにになるから)

 おかあさんが、鬼になるのはやだったから。
 だから、桜子はあそこに一人で入ったの。

 それなのに。

   (ちょうちょさん、一緒に入っちゃったの?)
   (ちょうちょさん、寒い?)
   (ちょうちょさん………桜、見たいな……)

 桜子が、止めたの。
 一緒にね、いて欲しかったの。
 でも………


  意識の混濁。
  意識の共有。

   (ちょうちょさん…………桜、見たい、ね…………)
   (さくら………みたい、ね………)
   (さくら、咲くね………)
   (咲いたら、寒くないね………)

    とろりと意識野の境目が溶けてゆく。
    われとなんじの境が溶けてゆく。
     幽冥境は……確かに夢に近かったのかもしれない。

     我、夢に胡蝶となり
     胡蝶、夢に我となる


     とろりと、願いが溶けてゆく。
     とろりと、全てが溶けてゆく。


 ちょうちょさん。
 本当は、桜子が連れてゆかなければ良かったのに。
 連れていって、桜を見たいって言ったから。
 ちょうちょさん、桜を探して飛び回ってたの。

 ……ごめんね。
 …………ほんとうに、ごめんね。


 だから………

 ふう、と、意識が薄れてゆく。
 その意識の欠片のどこかで、野枝実はすとんと気が付いていた。

「……あんたは」
「なあに?」
「胡蝶の、夢……?」

 ほんの少し、少女は目元を和ませた。

「だったら、いいな」

 夢の、残滓。
 それとも、本当?


 どちらなのか。
 どちらが正しいのか。

 今では大差の無いないこと。
 ……どちらであっても………

 撚りの甘い細い糸を、そっと引っ張った時のように。
 本当に静かに、野枝実の意識は途切れた。



最終章:夢衣〜桜舞


 二週間は、さらさらと過ぎていった。

 結局返せなかった桜の枝の代わりに、温室咲きの蘭の花を持って、花澄のと
ころに行った。一部始終を聞いて、暫く花澄は黙り込んでいたが、ふい、と小
首を傾げて尋ねた。
「じゃ、桜、役に立ったのね?」
「うん……守ってもらったよ」
「そう」
 ふんわり、と、笑みが浮かぶ。
「それは良かった」

 狭霧にも、情報のお礼を言った。夢見鳥の正体を告げると、おやおや、と首
を振り、暫くしてからくすっと笑った。
「義理堅い蝶々もいるものね」
「……全く」

 報酬は、きちんと口座に振り込まれていた。
 同居人二人共に迷惑をかけた自覚はあったから、せめても……という心掛け
は良いとして、何故そこで酒瓶とケーキになるんだろうなあ、と、鬼李が後ま
でぼやいたものである。
 晃一は喜んでくれたけれども、食べる前に一言、はっきりと言ってのけた。
『でも、野枝実お姉ちゃん、ケーキよりもお姉ちゃんが眠れるようになって良
かったよね』
 じろっと睨んだ視線の先で、影猫がするりと横を向いていた。

 
 それから二週間後、呼び出しが来た。


「あ、野枝実ちゃんに……晃一くん?良かった、待ってたのよ」

 にこ、と、人懐っこい笑みを浮かべて、氷冴が手招きする。
 素直にそれに従いながら……野枝実は少し眉をひそめる。

「どうしたの?」
「……え?」
「額に縦じわ」
「え……と」
 フォローの仕様も無いまま思わず左右を眺めた野枝実の様子に、氷冴が吹き
出す。
「……氷冴さん」
「なあに?」
「……面白がってます?」
「あら、勿論」

 ころころと笑いながらの返答に、野枝実がぐっと言葉に詰まった。
 晃一は少し不安そうに、鬼李を抱きかかえたまま野枝実の側に突っ立ってい
る。

「あの、それで?」
「ああ、今日の用事ね」
「はい」
「それが、ね」

 そこで言葉を切って。

「胡蝶は、殺さないことになったの」
「胡蝶って、あの少女ですか?」
「そう」

 ふう、と、野枝実は息を吐いた。

 人の(というか、物の怪も含めてだが)死を期待するほど……哀しいことは
ない。
 たとえそれが、夢に取りつく魔物であったとしても。
 それでもやはり………それは、少女の姿を取り、少女の声で話し、少女の声
で笑う存在だったのだから。

「晃一君、こちらにどうぞ」

 にこ、と笑って氷冴が招く。おずおずと、晃一がカウンターの席へと近づく。

『あの、ぼくのこと……』
「知ってます。大丈夫。友久からも野枝実からも聞いてるわ」

 ふっと、穏やかな、静かな笑みが氷冴の顔に浮かぶ。

「ここでは、大丈夫よ」

 やさしい、声。
 晃一の表情がほっと緩むのがわかる。少し高いカウンター席に、軽く体を浮
かせて、そのままとん、と座り、それから振り返って野枝実を招くように見る。
 応じるように少し笑って、野枝実が隣の椅子に座る。

「オレンジジュースでいいかしら?」
『はい、ありがとうございます』

 晃一の思念は、どこか幼い色を残していて。
 氷冴が微笑む。

「……いい子ね、野枝実ちゃん………友久」
「?!」

 最後の言葉に弾かれるように、野枝実は振り返った。丁度開いた扉から、見
慣れた姿が入ってくる。

「……氷冴さんっ……」
「あら、友久も呼んだのよ、知らなかった?」
 知らせない積りだったことが非常によく分かるにこにこ顔。
 野枝実は思わず溜息をついた。

「それで?」
 晃一を挟んで、野枝実と反対側の席に座りながら、友久が口を開いた。
「それで、って?」
「呼び出して下さったからには、何か用事があるかと思ったのだが?」
 琥珀色の液体を注いだグラスを二つ、それぞれの前に置きながらの不思議そ
うな問いには、今度は晃一の膝の上の黒猫が応じた。
「ああ、用事ね。野枝実ちゃんに渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
「それだけか?」
 二重に重なる声に、くすくすと氷冴が笑う。
「あのっ」
「いえ……ちゃんと理由はあるのよ。友久を呼んだ理由も」
 流石に少々咎めるような響きの混ざった野枝実の声に、氷冴はなだらかに笑
いを収めた。人懐こい暖かい笑いを、それでも目元に留めたまま、彼女は言葉
を繋いだ。
「これを、渡したいと思って」
 同時に、カウンターの下を探って、かなり大きな和紙の包みを引き出す。
 その形に、見覚えがある。

「……あの、氷冴さん、これって」
「開けてみて」

 どう見ても、着物を包む和紙の被いである。戸惑いながら野枝実は、紙縒り
の方結びを、指の先でそっと解いた。
 そのままぱさり、と、包みを開く。
 と……野枝実の顔色が変わった。

「………………っ」
「わかる?」

 桜の地色の、一目で上等と分かる着物である。折り畳んで、丁度袖の部分が
上にくるように置いてある。
 その、袖の部分に。

「………これって……!」
「だって、胡蝶に頼まれたんだもの」

 袖の裾の方は、桜の色が少々はっきりと染め出され、その上から銀糸で桜の
花が縫い取られている。非常に手の込んだ、と見て取れる文様の上に。
 白い、揚羽蝶。
 視線の先で、蝶の羽根は、ふるふると軽く震えた。

「だからって、氷冴さん!」
「大丈夫、ちゃんとその小袖の中に封じてあるから。野枝実ちゃんがその着物
着て眠るって言うんなら、それは確かに夢に出てくるでしょうけどね」
「だからって……氷冴さん、またなんでっ」
「だから、頼まれたの、胡蝶に」

 食って掛かる野枝実と、まるで子供に言い聞かせるような口調の氷冴。
 晃一が目を丸くして二人のやり取りを見ている。

「頼まれたって……」
「どうしても、野枝実の近くに居たいって言われたの」
「……意趣返しですか」
「あら、そうは聞かなかったけど?」
「だからって……友久を呼んだってことは、それだけ危険だってことじゃない
んですか?」
「あら、それは違うわよ」

 非常に心外だ、とでも言いたげに、氷冴は少し口元をとがらせてみせる。

「じゃ、何で……」
「だって野枝実ちゃん、どうせこれ家に持って帰っても、箪笥の肥やしにする
のが関の山じゃない?」

 ぐ、と、野枝実が言葉に詰まる。
 図星である。

「胡蝶って、あれで自分の封じられる場所には、本当にうるさかったんだから。
桜一輪、やれ色が濃いの薄いのって、大変だったのよ」
「……だからそれが」
「そのまま仕舞い込まれたら勿体無いもの。今度のお正月にでも、それ着てこ
こに来て欲しいな、って思ったの」
「だから何で、わざわざ」
「誰か証人立てとかないと、野枝実ちゃん、この手のことはすっぽかしそうだ
もの」

 しゃらん、とかろく言ってのける。
 何とも言い様の無い顔になって、野枝実が口をつぐむ。
 黒い猫が金色の目を細めて、ごろごろと喉を鳴らした。

「……でも確かに、危険なものではあるのよ。夢見鳥を封じた着物なんて」

 ふわりとした口調に、野枝実はグラスに落としていた視線を上げた。

「それでも、胡蝶がどうしても、と言うから」


   桜、咲くね

  ふいと耳に蘇る、ひどく明るい、声。
  明るい……つらいほど明るい、声。

「…………恨まれてると、思ってました」
「あら、どうして」
「桜を、咲かせなかったから」

 何よりも、あの化生は、桜の花を望んでいたのではなかったか。

「……野枝実ちゃん、あのね」

 ソバージュの髪が軽く揺れて。

「胡蝶からのお礼。一番会いたかった人に会えましたって」
「え?」


     少女、夢に胡蝶となり
     胡蝶、夢に少女となる………



   うんとむかし、とてもさびしいひとがいました。とてもさびしいひとは
   たびのはて、やはりとてもさびしいひとにあいました。ふたりはあまり
   さびしかったので、はなればなれになるよりは、と、ひとりになること
   にきめました。ひとつのからだにふたりでいよう、と。そしたら、この
   さびしさははんぶんになるかも、と。

   けれども、さびしいひとは、やっぱりひとりのままでした。


 ……それは、幼い頃に読んだ、絵本の一節。

「……会えたんでしょうか、胡蝶は、あの子に」

 あまりに近くにいたため、会うことも出来なかったあの少女に。
 
「嬉しそうだったわよ」
「……そうですか」

 からん、と、グラスの氷が音をたてた。

「それならば……」

 視線を、解けかけた氷から氷冴へと移して、念を押すように。

「終わり、ですね」
「……そうね」

 マホガニーレッドの唇が紡いだ言葉は、ほんのりと桜の色を残像のように響
かせて、そのまますうと溶けていった。


 沈黙の中に、静かなピアノの音。
 
 薄淡い桜の色の中で、胡蝶はやはり、時折羽根を羽ばたかせている。



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