エピソード『ぼなる』


目次



エピソード『ぼなる』


登場人物

 宮部晃一(みやべ・こういち)	:強化超能力少年。
 鬼崎野枝実(きざき・のえみ)	:影使い、現在の晃一の保護者代り
 鬼李(きり)			:野枝実の相棒の影猫
 本宮友久(もとみや・ともひさ)	:空間操作能力者、野枝実の家に居候



はやいお迎え

 某日、中原医院。

 野枝実	:「こんにちは」
 中原		:「こんにちは、鬼崎さん。今日は早いですね」
 野枝実	:「休講があったので」
 中原		:「晃一君は、中庭ですよ」

 一礼すると、野枝実は足早に中庭に向かった。公園によくあるようなベンチ
に座った子供が二人。その片方の膝の上から黒い猫が身を起こし、にゃあ、と
鳴いた。

 晃一		:『あ、野枝実お姉ちゃんだ』
 新		:「こんにちはっ」
 野枝実	:「こんにちは……って、何してるの?」

 耳元に手をあてて、それを少しずつ動かしながら、生真面目な顔で新が答え
た。

 新		:「鬼李の耳がぴくぴく動いてたから、中原せんせいに聞い
		:たら、聞きたいものをよく聞く為って教えてくれて」
 晃一		:『だから、こうやったらよく聞こえるかな、って思って』

 野枝実はくすり、と笑った。

 野枝実	:「で、よく聞こえる?」
 晃一		:『……わかんない』
 新		:「え、でもよく聞こえるよ。耳のこっち側は。でも後ろが
		:聞こえない」

 黒猫が一つ欠伸をした。

 野枝実	:「じゃ……少し早いけど、帰る?」
 晃一		:『うん。新くん、またね』
 新		:「うん、またね」

 言いながらぴょん、と立ち上がる。勢いが少々よすぎてバランスが崩れかけ
たのを野枝実が受け止めた。

 野枝実	:「聞く、か……」
 晃一		:『?』

 自転車の荷台に晃一が乗っている。それを野枝実が押しながら歩いている。

 野枝実	:「少年、聞こえるかどうかは知らないけど、聞いてみる?」
 晃一		:『なにを?』
 野枝実	:「うん」

 ふわ、と野枝実は笑った。

 野枝実	:「以前花澄に聞いたことがあるんだけどね、あたしも試し
		:たことがない。丁度今が、頃合いだから」

 ひたすら晃一は首をひねっている。

 鬼李		:「野枝実、その秘密めかした言い方、何とか出来ないか?」
 野枝実	:「秘密ってほどじゃない。……鬼李は憶えてない? ほら、
		:花澄が言ってた『ぼなる』って」
 鬼李		:「ぼなる……?」
 野枝実	:「良寛和尚を真似してみようかって」
 鬼李		:「ああ、あれか」
 晃一		:『……?』
 鬼李		:「それは確かに、晃一は知らないほうがいいな。聞いてみ
		:て聞こえたらそれでよし、聞こえなかったらその時は教え
		:てあげるよ」
 晃一		:『うん……ねえお姉ちゃん、お兄ちゃんも行くかな』
 野枝実	:「……どっちでも」

 途端に返事が投げたものになる。鬼李がくつり、と小さく笑った。



夜の田端にて

 日が沈むと、もう風はかなり冷たくなる。

 晃一		:『これが、お米?』
 野枝実	:「お米……この状態なら、稲」
 晃一		:『ふうん……』

 夕食の後、刈り入れ間際の田まで歩いていった。もうすっかり穂は熟してい
るらしく、多少の風では動かない。ただ、細い葉だけが、さわさわと揺らいで
いる。

 晃一		:『何を、聞くの?』
 野枝実	:「何が、聞こえる?」

 問い返されて、晃一は神妙な顔で耳に手を当てた。そのまま黙って耳を澄ま
す。

 晃一		:『……しゃらしゃらって、音がする』
 野枝実	:「……うん」
 晃一		:『それが、ぼなる?』
 野枝実	:「どうなんだろ(苦笑)」
 友久		:「適当だな」
 野枝実	:「あたしだって、聞いたことがある訳じゃない」

 言いながら、少し首を傾ける。

 野枝実	:「晃一は憶えてる? 花澄って」
 晃一		:『うん、憶えてる』
 野枝実	:「彼女が教えてくれたんだけど……方言で稲の穂が実るの
		:をぼなるって言うんだって」
 鬼李		:「で、同じ言葉を『吠える』の意味にも使うそうなんだ」
 晃一		:『これが、吠えるの?』
 野枝実	:「だから、それが本当かどうか、聞きたい、と思って」
 友久		:「その、花澄さんって人は聞いたのか」
 野枝実	:「昨日一晩、ぼーっと立ってたそうだから……聞いたんじゃ
		:ないかな」
 鬼李		:「花澄なら一晩でも立っていそうだな(笑)」

 一晩立ち尽くす姿は思い浮かぶ。ただ、その時何を聞いていたのかは分から
ない。同じものを聞きたくて、ここに来たのかもしれない。

 晃一		:『お姉ちゃん、しゃわしゃわって聞こえる』
 野枝実	:「……うん」

 聞こえないものを聞こうとするには、耳を澄ますだけでは足りない。多分、
心まで澄まさなければ、聞こえないものなのだろう。
 心を澄ませる。様々な思いの欠片が静かに沈殿してしまうまで。……そうやっ
て、一晩立ち尽くしたのだろうか。

 耳を澄ます。
 心を澄ます。

 不意に。ぽかん、と、自分の中のどこやらが、空っぽになった気がした。
 空っぽを抱えたまま、耳を澄ます。空っぽの中に、映る、音。

 おおん、と。吠える、声……

 友久		:「おい」
 野枝実	:「!」

 夢の中で足をひねった時のような、がくり、と引き戻される感覚。

 鬼李		:「……野枝実?」
 野枝実	:「……うん」

 生返事をした野枝実の手を、晃一が遠慮がちに引っ張った。

 晃一		:『お姉ちゃん、何、聞いてたの?』

 しばらくためらってから、野枝実は苦笑して首を横に振った。


見るもの聞くもの

 友久		:「おい」
 鬼李		:「え?」
 友久		:「先刻のは」
 鬼李		:「……野枝実は、耳がいい」

 今一つ噛み合わない返事を、鬼李はよこした。

 鬼李		:「影の中で周りを見るほど、野枝実も莫迦じゃない。その
		:かわりあれは耳を澄ます。……面白い話だ。あちら側を知
		:るのに、見る者もいれば、聞き取る者もいる」

 あれから帰って来るまで、野枝実は殆ど口を開かなかった。口をきかないま
ま晃一を寝かしつけ、またふい、と外に出ていった。

 鬼李		:「あのまま放っておくと、聞かなくてもいいものまで聞き
		:取りそうだったから、止めてもらったのだが……それが何
		:か?」
 友久		:「……別に」

 応えに目を細めると、鬼李はまた丸くなった。
 風の中に含まれる、ぼなる音。ぼんやりと、野枝実はそれを辿っていった。
そして……部屋へと足を向けた。


解説




連絡先 / ディレクトリルートに戻る / TRPGと創作“語り部”総本部