エピソード「臥待月」


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エピソード「臥待月」



佳い、月だった。
屋根と壁に細切れにされた申し訳のような夜空のきれっぱしに浮
かべておくには、あまりにもったいなかった。
爪弾きの三線の手を止める。大振りの抱瓶に古酒を注ぐ。
抱瓶は腰に、三線の袋を片手に。
部屋を抜け出す。
耿々と月光が降り、落ちた影を夜風が撫でる。
…月ぬ美しや十日三日やしが…
歌が唇をついて滑り出す。
あてのない道行を、月浮かれの足がたどりはじめる。

佳い、月だった。
家のものは寝静まっている。
もったいないことだ、とつぶやきながら土蔵の壁に梯子をかけ、
屋根に出る。
かねて用意の七輪を据え、もう二往復ばかりして酒と肴も並べる。
先だって実家から送ってきた虹鱒がまだ母屋には残っているはずだ
った。他にも何か炙るものはあるだろう。
そういえば、思っていたより酒が少ない。この間の仲秋に、飲ん
兵衛どもに呑まれたのだったか。
今から買い足しに行くのも興ざめだ。一人で酌むぶんには、まあ
足りなくもなかろう。
盃が月を含む。
盃に落ちた月を飲み干す。
何するでもなく、木のさやぎを聴く。

酒が心細くなってきたころ、道の向こうから歌声が聞こえてきた。
男の声だったが、妙に心ひかれた。
何と歌っているのか意味さえとれなかったが、不思議な節回しは
降り続ける月光によくなじんだ。よい歌だった。

よい歌を歌うからにはよい男で、よい酒を持っているのではない
かと思われた。見下ろすと、ちょうど土蔵の下に来かかった男と目
が合った。男は歌をやめ、にっと笑った。

 一     :「なあおい、上がってこないか。つまみなら、まだ
       :ずいぶんとある」

男はうなづくと、驚くような身軽さでひょいと塀にとびのり、続
いて屋根にまでよじ登ってきた。

 鷹央    :「佳い月だな」
 一     :「ああ」

男が座ったとたん、気がついた。杯がない。

 一     :「とってこよう」
 鷹央    :「なに、その皿でいい」

指さす先には手塩皿がある。思わず笑みをこぼしたのはどちらだ
ったか。

 一     :「こんな乞食の酒宴でも、客は客だ。そんなことは
       :させられん」
 鷹央    :「ならどうする?」

残った酒を飲み干すと、軽く拭い、渡す。
男は自然に瓶をとり自分の杯を満たした。
しばらく塩を思案したが、結局炙り物の上に散らした。
そしてその皿を杯に見立て、酒を注いだ。

 鷹央    :「うまいな」
 一     :「地酒だ」

幾らも干さぬうちに、用意した酒があっさり尽きた。

 鷹央    :「では、こちらも飲むか」

抱瓶を解いて、置く。

 一     :「ありがたい」
 鷹央    :「強いぞ」

人の悪い笑みに、微かに唇を歪める。が、

 一     :「…佳い、酒だ」
 鷹央    :「そうか」

暫し、涼やかな沈黙。
盃の中でとろりと月が揺れる。

 一     :「それは」

ふと、視線が、三線の袋を指した。

 鷹央    :「手すさびだが。…聴くか」

うなづき、盃を口元に運びかけた手が、そのままと
まった。
凛とした音が、夜気にこぼれ、月光に酔い、ほろほ
ろと散ってゆく。
深い声が、月を愛で、人を恋い、時の流れをうたう。
やがて曲がとぎれると、もうひとつの声がうたいは
じめた。
重い手拍子。
朗と張った声。

いつしか月は西に深く傾き、

 一     :「夜が、明けるな」
 鷹央    :「今宵の主も引き揚げのようだ」
 一     :「佳い、夜だった」
 鷹央    :「佳い、宴に招ばれた」
 一     :「また、会おう」
 鷹央    :「ああ、いずれ」


夜が明けてから、互いの名を知らぬことに思い至っ
た。
まあ、いい。
また会えるだろう。
例えば来年の臥待の月の夜に。


※注
抱瓶(だちびん):三日月型をした携帯用の徳利。
        :沖縄の工芸品のひとつでもある。両脇に紐を通す耳が
        :ついており、内側の湾曲を腰にあわせて結いつけるよ
        :うになっている。


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