2001年11月20日
富山共和国 倶利伽藍峠国境検問所
目の前に立ちふさがっている緩やかな山稜。その稜線が自然と協力しあって
形作っている輪郭。その上に重なる人の目にしか見えぬ線。国境地帯は、今日
も静かだった。その上空を覆う空は今日も曇りだった。そして、いつになった
ら降り止むのだろうか。そんなことをつい考えてしまうのだ。この永遠のよう
に冷たく鬱陶しい、大粒の、雨。
今日のところは幸いにしてというか、当然のことながらというか、何事も起
こっていない。むろんそうじゃなけりゃ困るのだが。そして俺は…………俺は
まだ孤独だった。
睫毛に水滴がついている。視界に入ってくる光線の方向を微妙にゆがませて
いる。昨日の夕方辺りからしんしんと酷く冷え出している。今年がよほどの暖
冬でないのならば、そろそろ雪が降り出しても……そして積もり出してもおか
しくない季節になってしまっている。雨は相も変わらず、冷たい。
一昨年、昨年と続いたこの国境でのお勤めの二年間。そのさほど楽しいとは
言えない経験から言っても、雪が降り積もってしまいさえすれば俺の仕事はあ
らかたのところ無くなってしまう筈だった。そう、国境警備隊員としての仕事
は。降り続く雪が全てを覆い隠してしまいさえすれば、陸路はるばる山を越え
て国境を通過しようなんてことを考えだす馬鹿者はまずいなくなるはずなのだ。
第一、我らが冬将軍の訪れと共に歩哨なんて事自体がほとんど不可能になる。
我らが“自由”市民の“民主的”な代表にして守護者たる富山共和国自由政府
の、“国民に心の奥底から愛されている”官僚のお歴々にしたところで、装備
の不足によって熟練した警備隊員を凍死させる事は望んじゃいないだろうし、
ましてや、ただでさえ毎年のように赤字を計上している予算の中から遺族弔問
金を支出することは望んでいないだろう。
そして俺は旧国道八号線が国境線を貫く地点、倶利伽藍トンネルを見下ろす
詰め所で雪の降りしきる中、ゆっくり中学に通っていたガキの頃からの趣味だ
った下手なSF小説でも書き綴るのだ。大川のアホは怒るかも知れないが、そ
んなことは別に問題ではない。俺はどう考えても全く無用としか思えない歩哨
任務で凍死するのは御免だ。俺にしてみりゃここで生まれたというだけで家族
の一人もいないこの国に守るべきものがあるわけでもなし。これで正月休暇に
一遊び二遊びするのに充分な特別割増給与が出るんじゃなかったらとっくに加
賀の方にでもむけて脱走しているところだ。
どうせ今日も国境線を越えてくる奴なぞ居るわけもない。俺はそう考えなが
ら暇つぶしに近未来世界を舞台にしたSFを順番に思い浮かべた。今年は20
01年。まあ、人類はまだ生き残っている。格段、進化したようにも見えない
し、文明も崩壊してはいない。コンピューター知性の叛乱も起こっていない。
結局世界連邦もできなかったし、実用にたる人工知能もまだできていない。ま
あ、宇宙人もまだ地球に来ていない(はずだ)。ただ、ちょっとばかり変わっ
たことと言えば、ここいら一帯で文明の規模が酷く縮こまっちまったというこ
とだけだ。
宇宙……宇宙。この分厚い雲の遥か上、俺の憧れの場所の大半は未だ人類に
とって未知のままだ。そして、あの事件以来の各国の経済的事情って奴のせい
で月軌道の向こうは、いまだ実質的に閉ざされている。
そのことを想って溜息を吐いたとき、無線機が鳴った。何だろうか。定時連
絡の時間はもうとっくに過ぎた筈だし、交替時間はまだ先だ。その昔にはふん
だんにあった物でも、今のうちの国で自給できない物が幾つかある。ボタン形
の水銀電池がその一例だ。お陰で単3形のニッカド式充電池を大量につかった
ごつい無線機が俺達には支給されている。加賀の連中が作った無線機はもっと
小さくて優秀だ。こんな所に元は県であった各国の技術格差がもろに表れるの
だ。同盟国である(と、同時に旧日本国内諸国の中では最大の人口と工業力を
持つ)日本国京都政府からの輸入電子機器は新潟人民共和国と直接睨み合って
いる親不知の最前線の方に優先的に送られてこっちには滅多に届かない。
そういう訳でわが国の独自技術の精髄を肩から降ろしてスイッチを入れる。
これでも一応周波数変調デジタル秘話装置ぐらいは付いている。まあそれだけ
でもましだと思うべきなのだろう。第一線クラスの部隊じゃないのだから。
無線機の小さなモノクロ液晶画面に受信装置の汎用システムのウィンドウが
立ち上がって、すぐに明瞭な声が響く。
「こちら霊柩車。何かありましたか? どーぞ」
霊柩車が俺の国境警備隊員としてのコードネームだ。ついでにうちの検問所
のコードネームは火葬場。無論、この最悪で露悪的で下品なコードネームは断
じて俺の趣味とは相容れない。この一事を取ってみても国境警備隊の上層部の
ジョークのセンスがどれほどのものか判る。お里が知れるって奴だ。
「火葬場よりこちら墓石。特に連絡事項は何もないが。どうせそっちはヒマだ
ろーと思って声掛けてやっただけだ。明日はお前非番だったよな。俺も非番だ。
どーだ、飲みに行かんか? どーぞ」
同僚で悪友の北山だった。
「まーったく。んなことして、大川のアホに見付かるとまたゴチャゴチャとう
るさいぞ。そんなくだらん事で無線を使うべきではない。君たちには祖国と郷
土を守ろうと言う精神が不足している。ってな。どーぞ」
俺は直接の上司の大川の口調を真似て答えた。あちらで思わず吹き出してい
る気配がする。いいんだ。給料低いし、どうせ規律なんてないも同然だ。
まあ、どう足掻いてもしょせん俺達加賀国境検問所隊は二流クラスの部隊だ。
新潟民主主義人民共和国との熾烈な実戦を生き抜いてきた精鋭の朝日守備隊や
旧富山県警山岳レンジャー隊の流れを汲む立山山岳守備隊、人の行き来が多く
まともな検問所としての仕事が絶えない飛騨国境検問所隊に比べれば士気も上
がらず締まらないことおびただしい。まあ。名古屋政府の子分の北陸連邦と京
都政府の飼い犬の我が富山共和国は、冷たい国交断絶の関係を暖め合う仲だ。
人の行き来がないのも当然だが。
「あんなダラボチャ気にするこたないって。どうせもうじき定年でどっかにポ
イだ。で、飲みに行くのか行かんのか。総曲輪の奥になかなかええ店を見つけ
たんでな。どーぞ」
まあ、いいけどね。俺も北山もどうせ上司の大川にはしっかりと睨まれてい
る。さてと……明日か。北山がいい店と言うからには信用できる。静かに飲め
る安くていい店という情報に間違いはないだろう。しかし残念だが。
「すまんが明日は一寸した先約があってな。大事な用なんだ。また今度にして
くれ。どーぞ」
「ふーん……」
少しの間がある。何となく詮索されているような気分になる。
「ま、頑張れや。ほんじゃま交信終わり。どーぞ」
「ではでは。どーぞ」
北山の話し方に隠しておいた先約の正体を見透かされたような気がして軽く
冷や汗をかきながら無線機のスイッチを切る。
気が付くと防寒着の上から俺の身体を好きなように叩き続けている雨の中に
小さな氷の固まりが混じっている。防寒着の表面ですぐに溶けるものではある
が。霙だ。
ああ、やだやだ。また雪だ。
学生時代……俺もこの国もまだ何も知らなかったあの頃にはすでに流行遅れ
になっていたクリスマスソングを思い出す。あの歌の歌詞ではクリスマスイヴ
の夜になって初めて雨が雪に変わるんだったな。まったく。長閑な話だ。太平
洋側ってのは。
そう言えば、あの頃は温暖化の影響だのエルニーニョだのとか言って、結構
毎年暖冬が続いていたような記憶がある。俺は軽く身震いするとつい最近何百
年ぶりかに引き直されたばかりの国境を構成している稜線の監視任務に戻った。
冷たい霙のカーテンを透かして加賀――北陸連邦の国境監視兵の姿が見える。
あの冗談のような東京崩壊の後から出来たこんなバカな国境なんてモンのせい
でお互い苦労させられるよな。あの頃はお互い同じ日本人だった筈なのに。何
となく霙の向こうでほとんど点にしか見えない加賀の国境監視兵も同じ事を考
えている様な気がして、心の中で語りかける。
一応規定で定められている交代の時間までまだ後二時間余り。俺は西の空の
方を見つめた。嫌になるほどに均一な、灰色の空。霙混じりの雨から変わりは
じめた雪が止みそうな気配はない。
今年も長々と雪の中に閉じ込められるのだ。寒く冷たく湿って重っ苦しいこ
の国の……富山共和国の冬が始まろうとしていた。
2001年11月21日
富山共和国 富山中央区 総曲輪
客の回転率を少しでも上げようという算段なのか、単に椅子に出す投資をケ
チっただけなのか。座り心地のすばらしく良い喫茶店の窓際の椅子の堅すぎる
クッションの上では、早くも尻の下が熱く痛くなっている。
椅子の上で少し足を組み替える。そのついでに読みさしの本から視線を上げ
て窓の外をふと見る。いつの間にか路地の真ん中でさえも雪が人のふくらはぎ
程度まで積もっているのに気付く。表通り、旧国道を市電が通り過ぎる音がゆ
っくりと遠ざかっていった。いつもよりずっと素早く静けさが戻る。雪のせい
だ。
そして街の生み出す大小さまざまなざわめきが持っているエネルギーを結晶
同士の微細な隙間に吸収しながら、雪は降り続ける。
椅子の背もたれにかけた上着の内ポケットの中に手を伸ばし、ポケットテッ
シュの袋を取り出す。ティッシュを一枚取り出して窓ガラスにびっしりと結露
している水滴を軽く拭き取る。普通ならこれで窓の外の視界がクリアーになる
はずなのだが。内外の気温差はそれすらも打ち消すほど大きいのだろう。拭く
そばから白っぽく結露していって、いっこうに見通しはよくならない。
俺がこの喫茶店に入って来たときよりも雪の降り方が更に激しくひどくなっ
てきているような気がした。窓に面したほんの小さな小路の向こう側すら降り
しきる雪片の群の彼方にぼんやりとかすんでしまって見えにくくなっている。
からんころんと気分のいい軽い鈴の音がした。この喫茶店の戸口には鈴が取
り付けられているのだ。よくある電子チャイムの画一的な音なんかに比べれば
余程風情がある。
やっと彼女がやって来たのかと思って俺は入り口の方に視線をやる。マスタ
ーと顔馴染みらしい黒いコートの初老の男性がカウンターに向かって何か話し
ながら肩に積もった雪を払っている。また、人違いだったようだ。
店の壁に掛かった時計に視線をやる。もう待ち合わせに約束した時間から二
十分も過ぎている。俺が戸口の鈴を鳴らした時間から数えるならもうすでに四
十分になる。
電停からここまで歩いてくる間に俺のスノーブーツにこびり付いた雪もこの
喫茶店の暖房で溶けてほとんど乾いてしまった。こんな時、何があろうと絶対
に約束の時間の十分以上前に着いていなくては気が済まない自分の性格を損だ
と思わずにいられない。とはいえ、遅刻は出来ない。彼女を待たせるなんて絶
対に出来ない。とても俺には。
読み差しの和製ヒロイックファンタジーに視線を戻す。こういう時に何も言
わないままで客をほっといてくれるこの店の雰囲気が俺は好きなのだ。結局の
ところあの騒ぎで卒業できなくなった大学に籍を置いていたあの頃、下宿のす
ぐそばにもこんな雰囲気の店があった。俺は誰にも邪魔されることなく真夜中
過ぎの閉店時間いっぱいまでコーヒー一杯で貪るように古本屋で手に入れたS
F小説を読みふけっていたものだった。
やっと猫舌の俺にとっての適温にまで冷めてきたアップルティーを一口すす
りながらページをめくる。東京が壊滅して作者の行方さえ判らない状況ではこ
の物語もついに未完のままに違いない。古本屋のつてをたどって苦労して手に
入れ直したんだが、その表紙は俺の手に渡るまでに何度も何度も読み返された
せいだろうか、カバーの端が薄汚れている。
暫くして豹頭の主人公とその旧友とがそれぞれ別の国の将軍となり、攻め込
んだ国の小さな寒村でやっと再会するシーンまで読み返したところで、再び入
り口の鈴が来訪者を告げた。
視線を上げると、あきらかに見覚えのあるフェルトのような地の薄緑色のコ
ートを着た人影が、戸口のところで身体に積もった雪を払って、こちらに近づ
いてくる。俺は文庫を黒い革製のショルダーバッグに仕舞いながら目を細める。
「ゴメンゴメン、ほら、この雪でバスが遅れちゃって。待ってたでしょ」
俺の待ち望んでいた姿がそこにあった。彼女は走ってきたらしく、息を少し
切らしている。ほほがほんのり上気している。それを見るだけで待たされたこ
となどまったく気にならなくなる。俺は自分に出来る最高の笑顔でもって応え
る。
「ああ、ほんの……ホントにほんの少しだけな」
たかが三十分や一時間など。十年近くもの間待ち続けたことに比べればほん
の少しだ。大した事じゃない。全くだ。
1995年1月6日
日本国富山県 JR西日本石動駅
石動駅に停まったきり、金沢行きの鈍行列車はなかなか発車しようとしなか
った。
俺はセーターの左の袖口をわずかにまくり上げて、大阪は日本橋でさらに買
いたたいた思いっきり安物の腕時計のアナログの文字盤に視線を送った。この
駅で停まってから少なくとも五分もの時間が過ぎている。
おかしいな……もう動き出してもおかしくない頃なんだが。
そう思ったとたんに車両ががたんと音を立てて揺れた。
やっと脱出できる。ぐちゃぐちゃとしたしがらみと因習に満ちたこの土地か
ら。
俺はこの、たった一週間余りの帰省で、既に実家で寝起きすることにうんざ
りしていたのだ。親父とお袋には悪いが、俺には気ままな一人暮らしの方がや
っぱり性にあっている。そして、彼女との思い出のある、いや、在りすぎるこ
の山河もとりあえず当分の間は見ずに済むのだ。あのあっけない結末を向かえ
た想いの後遺症が、堅く乾いた瘡蓋になって落ち着くまで。傷ついた古いレコ
ードのように記憶が一定の個所を繰り返すのを止めるまで。俺は少し感傷的に
胸の内に呟いた。
しかし、微細な水滴の群に覆われた車窓越しに見える薄い単色の雪景色はな
かなか動き出そうとしなかった。石動駅から発車するべき時刻はとうの昔に過
ぎてしまっているの筈なのだが。
ダイヤが乱れるようなことでもあったのだろうか。
そう思って、隣りに置いておいた黒い革製のショルダーバッグの中からポケ
ットタイプの時刻表を取り出して丹念に点検する。しばらくして、ちょうどこ
の駅でこの鈍行を追い越す筈の新潟から福井までの特急を見つける。こいつが
まだ来ないのを待っているせいに違いない。発車の時間をもう五分も過ぎてい
る。
まあ、金沢での乗り継ぎのための待ち時間は三十分ほど取ってあったはずだ
から、この電車が多少遅れたところで乗り過ごす羽目にはならないだろう。
彼女と関わりのある《金沢》という言葉が自分の心の中で自然に出てくるの
がとても不思議だった。
京都の下宿の方で午後十時からと言って入れておいたバイトにはゆっくり間
に合うとは思うのだが。遅れてバイトをクビになんてなったりした日には、い
くら未曾有の好景気だとて、あんな割の良いバイトは当分見つかるような気は
しない。
あんな事があった後にもかかわらず、俺はそんな事を考えている。この間か
ら聞き続けている中島みゆきの「御機嫌いかが」の歌詞を思い出す。そう、人
間とは血を吐いても水を飲む。所詮は単なる生き物なのだ。
この春に……もう何日もない近くに大学受験を控えているというのに富山駅
のホームまで見送りに来た弟が自販機で買って持ってきてくれた、ホットの缶
コーヒーの残りを俺は一気に飲み干した。冷め切らずに妙に生ぬるい。それが、
俺と実家の関係を軽く暗示している。煮えきらず、つながりを断ち切り難く、
そして俺はどこかへ逃げ出したい。大学のSF研の友人から借りたル・グィン
の「闇の左手」が読み差しのままスポーツバッグの方の中にあるのは判ってい
る。だが、今はまだどうも続きを読む気にならない。
俺は、コーヒーの空き缶を窓枠に置いて、一つ軽く伸びをする。
四人掛けの箱座席の向かいに座っている小柄な女性が文庫本から顔を上げて、
俺はその姿勢のまま視線が合う。
「なんか、なかなか動きだしませんね」
そのままの勢いで話しかけてみる。
まあ、どうせ先は長いのだ。まだあと六時間はある。カジシン言うところの
行きずり共同体を形成するのも悪くはあるまいと思ったのだ。もっとも、彼女
が一応平均以上の容姿をした人なつっこそうな若い女性じゃなかったら話しか
けたかどうかと問いつめられたら俺だって返答に窮したに違いないのだが。ま
あ、男とはそんなモンだろう。俺一人が責められる筋合いのものではない。
「ええ、どうしたんでしょうね」
彼女は手にしていた缶入りの烏竜茶を置いて小首を傾げながら答えた。思っ
たより良い声をしている。訛のない発音の綺麗な、明るい印象のアルト声。
「何かあったんですかね」
少し言葉を切る。そのまま話題を変える。
「そちらはどちらまでですか?」
さっき彼女が脇にかけている薄い緑色のフェルト地のようなコートの中から
18切符を取り出して確認しているのを見ている。18切符はある程度以上長
距離でないとペイしないものだし、きっと彼女も長距離だ。俺も18切符をポ
ケットから出して見せて軽く笑いかけた。
「名古屋まで。そちらは大学生ですか?」
「ええ。まだ教養ですけどね。私は京都までで」
彼女が少し警戒を緩めるのが判る。少し話が弾み始める。彼女は名古屋の美
大生だと言った。俺は京都の文学部生だと告げた。どの大学のかは告げなかっ
たけれども。どうせ反応が予想できるから余り言いたくなかったからだ。なん
とはなしに流れ出す穏やかな時間。まあ、とりあえずはいい暇つぶしになる。
当面の共通の話題として18切符から今まで経験した鈍行列車旅行の話が取り
合えず盛り上がりつつあるとき、アナウンスが入った。
〈ただ今ダイヤが乱れております。申し訳ありませんがもう暫くお待ち下さい〉
通路を挟んで向かい側にあるボックス席をまるまる一つ占拠している詰め襟
学生服の男……血色が良くやたらと太っていて高校生にしてはやたらと老けた
顔だ……が、ポケットから伸びたイヤホンのコードをいじくりながら首を傾げ
て妙な顔をしている。
「本当に何か在ったのかしら」
手入れの行き届いているらしい形の整った眉を軽くひそめて彼女が呟く。困
ったもんだ。と思いつつも、心配げな彼女の顔もいい。
ふむ。俺は少し軽く鼻を鳴らす。
こちらの会話が聞こえたのだろうか。学生がイヤホンをいじるのをやめて、
俺達の方に向かって言った。
「良く判りませんが、どうも何か在ったようですね。FM富山が変なんですよ
ね」
一向に情報量のない台詞だった。何かあったことは百も承知だ。何がどんな
風にどの程度変なのかということが知りたいのだ。
「AMはどうですか?」
AMならもっと詳しく判るはずだ。局数も多いはずだし。
「このラジオじゃぁ、他の局入らないんですよ」
学生は学生服のポケットからテレホンカード状のものを取り出して肩をすく
めて見せた。FM富山のでっかいロゴが入っている。FM富山に始めからチュ
ーニングが固定されているタイプのカード型ラジオだった。なるほど。たしか
に、こういう物はこんな時には余り役に立たないものだ。
「とにかく、昼の歌番組……東京がキー局になっている筈の放送を聞いていた
ら、雑音と同時にぷっつりと途切れてましてね。それっきり何も入らなくなっ
たんですよ。ちょうど今さっきは東京から生中継の番組の時間でしたからね」
すると少なくとも雪のせいとかそういうローカルな事態じゃないということ
の可能性もあるって訳だ。
俺は、フイッと立ち上がった。
「ちょっと車掌さんに聞いてきましょう。何があったのか判るかもしれないし」
そう言って彼女の方に軽く笑いかける。
「あ、私もいっしょに行きます」
彼女が立ち上がる。どうなっているのか訊きに行くのに俺のようなむさい男
が一人より女性が一人ぐらい居た方が車掌の愛想もよくなりそうな気もする。
そう考えて軽く頷く。
「なら、一緒に行ってみますか」
「俺も行きますよ。金沢に早く着きたいんだ」
学生も立ち上がる。俺は軽くうなずく。
「あ、俺は北山といいます」
学生が遅まきながら自分の名前を述べる。俺と彼女も、それぞれ名前なんか
を名乗りながら、座席を器用に避けつつ前へと進む。なんとはなしに、車内の
座席をそれなりの密度で埋め尽くしている乗客の間に、不安の表情とかわし合
われる囁きが蔓延しているのを感じる。何かが起こっている。そして何がおこ
っているのかに関する情報はない。
しかし、その時は。まだどんなに大変なことになっているかだれも想像だに
できなかったのだ。
結局、俺が京都に着くことが出来たのは、次の日の夕暮れだった。もちろん
バイトはクビになった。そして、何が起こったのかが判ったのは、更にそれか
ら一週間も経ってからだった。
1995年5月3日
日本国福井県 福井市北25キロ
寒い。なぜ、こんなにも寒いんだろう。皮肉だ。よりによってこれがゴール
デンウィークだなんて。全てがなんにも関係ないことになってしまった。薄い
ワイシャツにしか覆われていない両腕を抱え込む。
こんなに寒くなるんだったらもう一枚着て来るんだった。神保町での古本買
い漁りに備えて荷物を軽くしすぎたか。それならそれで上にもう一枚くらい着
てきても良かったよな……
春の夜の大垣夜行はこんなにも寒くて。そう、こんなにも。そして不定期に
揺れる音。エンジンの音。微かなガソリンの匂い。排ガスの匂い。この列車は
ディーゼルだったろうか。そんな莫迦な。なんで、俺はそんな列車に乗ってい
るのだ。東京はもうないというのに。水道橋の駅前も、SFセミナーもないと
いうのに。東京でのSFコンベンションなんてもう二度とあるはずもないのに。
「おい」
そんな莫迦な。この冬から全てが変わってしまった筈なのに。
「おい、起きろ、いつまで寝てるんだ。そろそろ交替だぜ」
「ん……、あぁ。北山か」
「何寝ぼけてやがる」
脇腹の辺りが何か堅いもので小突かれる。俺は軽くまぶたを擦った。大垣夜
行の中なんかではなかった。俺が腰掛けて眠っていたのは小型トラックの助手
席だ。尻の下が、痺れるように熱い。
「もう交替の時間だぜ。そろそろ準備しろ」
俺は起き直る。頭の中にかかっていた霧がようやくの事で薄れていく。肩の
筋肉を伝う寒さに一瞬だけ身震いする。眼底から延髄の中央部に向かって冷た
く意識が冴えてくる。俺は軽く伸びをして首を傾ける。二三度。音がする。
「いまどこだ?」
北山は、ハンドルから手を離さずに答える。
「もうすぐ石川県。さっき福井市を抜けたとこだ。クソッたれな事に木の芽峠
でもろ渋滞に引っかかってな。そっから夜中だというのに40キロしか出やし
ねぇ」
ふん……。軽く鼻を鳴らして返事をして、時計を見てみる。午前4時ちょっ
と過ぎ。この季節なら、もう夜が明けにかかる時間。まだそんなところにいる
のか。夜明けまでにせめて金沢にはたどり着くつもりだったっていうのに。
まだ薄暗い外界をヘッドライトが照らす。前の車のテールランプが赤く、延
々と遥か向こうに続く。昔は良かった。幼い頃ならこの長蛇の列を、旅行を楽
しんだものだ。今やこれは、生活の手段で、ゴールデンウィークだって事を勘
定に入れてもやっぱりこの混み様は俺を苛立たせずにはおかない。
サイドガラスの向こうの夜を眺める。暗い顔の青年が闇の中から俺の方を見
ている。顎の下に無精髭が細々とはえている。頬はこけている。眉の間は軽く
しかめられて。目玉だけがぎょろりと何かに不満を持っているような。クソッ。
なんて貧相な。それが俺の顔だ。
書きかけの小説のような情景。一年前であったらまさにフィクションの中で
しか存在し得なかった。関東平野の潰滅、そして関東平野の大半が死の土地と
化してしまったがために大動脈、というより脳髄と心臓を叩き潰された上に南
北に分断されて北陸道経由で辛うじて一つにつながっている日本。そして俺達
は、この今にも壊れそうな日本を守るために働いている。いや、と言うより俺
達自身の生活を守るため、と言うのが正しいんだろう。休学届けはもう出して
あるが、あの混乱を極めてしまった大学にいまさら戻れるとは始めから思って
いない。それに、大学に行く気ももはや起きなくなってしまった。いつか、も
しかして落ち着いたらもう一回やり直す気になるのかも知れなかったが。今は
結局自分にはそんな気は起きないだろうとも思っている。俺は今ここで何かを
しなくちゃいけない。そんな焦りだけが身体を支配している。
で、いま俺が何をやって喰っているかというと、運び屋だ。と、偉そうなこ
とを言っても大したものを運んでいるわけではないが。今回の目的地は仙台市。
北陸自動車道が先日の大事故で通行不能になっているために国道8号経由。結
局のところ壊滅的な被害を受けてしまった物流を担っているのは、関東を一切
通らない道だった。
「それにしても……この国は一体どうなっちまうんだろうなぁ……」
北山が呟く。もう聞き厭きた問いだった。
俺が返答する気がないのを感じとったのか、そのまま別のことに話をかえる。
「テープかけるぞ。橘いずみでいいか?」
俺の生返事を肯定と受け取ったのか、北山はカーステレオのスロットにテー
プを送り込む。奇妙に明るい虚無的な歌詞が車内を暗く虚ろに幻惑する。不快
ではない。俺は、そのまま物思いに耽る。
大阪に集まった辛うじて難を逃れた国会議員たちと、各県の知事たちが、取
りあえず、臨時議会を形成している。わずかな救いといえば、天皇が新年早々
という批判を浴びながらもアジア方面に外遊に出ていたために年号だけは変わ
らずに済んだ事ぐらいか。今は臨時政府と一緒に京都御所にいる。
不意にブレーキが踏まれる。俺はつんのめる。シートベルトが胸と腹を締め
付ける。ダッシュボードに左手を突いて身体を支える。
「どした?」
口調に非難の気配を加えて尋ねる。
「前の車が急に……ついてねぇ。検問らしい」
軽く舌打ちしながらの答えに、俺は車の天井を仰ぐ。
「今回は別にやばいものは積んでないよなぁ」
「今回は」のところにアクセントを少しおいて。
「その筈だな。お客さんたちのいうことを信用するなら」
軽く嘆息して。
「まぁ、警察もご苦労さんなこっちゃ」
北山の答えを聞きながら、俺は腕を頭の後ろで組み直した。わずか一週間余
りの間をおいて起こった関東潰滅と神戸の大震災にも関わらず、意外と治安は
保たれている。まさに、警察もその中枢を失ったっていうのにご苦労様としか
言いようがないのだが。自衛隊は、神戸と関東辺縁部の避難救助活動に手を取
られていて、治安出動なんて思いも寄らない状態だというし。
車一台分の加速と減速。それが数回繰り返す内に、いつの間にか俺達の順番
が来たようだった。制服の男が、運転席の窓ガラスに顔を寄せてノックする。
北山は窓ガラスを下ろして答える。
「どちらに向かう荷物ですか?」
よく見ると、警察の服装ではない。よく似ているが、この制服は自衛隊だ。
北山もそのことに気がついたらしく軽く目配せを送ってくる。
「仙台までですが。何かあったんですか?」
北山が若い自衛官の機嫌を損ねないように精一杯の愛想笑いを見せて尋ねる。
「仙台なら通行不能ですよ。いつ交通が回復するか判りません。出来れば、こ
こからまっすぐ関西方面に引き返していただきたいのですが」
「冗談じゃない。運賃は前金で貰ってしまってあるんだ。飯の食い上げになっ
ちまう」
「ちょっと待って、あんた自衛隊だよな?」
俺は北山の反論を途中で遮った。
「なんで自衛隊がこんなところに出てきているんだ? まさか有事でもあるま
いし」
その自衛隊員は、困ったように頭を掻いた。
「それがどうやらその有事らしいんですよ。わたしもね、ほら、下っ端なんで
なんにも知らされていないんですけどね。とにかく、新潟県全域は通行不能で
すから」
新潟? 今あの辺りに何かがあったとなると、下手すりゃ日本は潰滅した関
東と合わせて完全に二つに分断されちまったということになる。この国は本当
にどうなっちまうんだ? 果たして日本という国は少しでも形を残して存続で
きるのか? 俺は、その不気味すぎる予感に軽く身震いした。
1995年7月2日
日本国(京都政府) 紀州水道
雨は激しく、包み込むように生暖かく、窓の外を叩いていた。フェルト地(の様に見える)のカーペットの敷き詰められた床はゆっくりとしたリズムで
わずかに揺れていた。
俺は周囲の空気に漂っているざわめきに、軽く耳を澄ませて、一つ欠伸を噛
み殺した。
「後どれくらいだろ?」
トイレから戻ってきた北山が、声をかけてくる。
「………さぁねぇ……予定通りなら、もうとっくのむかしに着いていてもおか
しかぁないはずなんだけどねぇ……」
俺は、あぐらを組んだ足の上においたショルダーバッグにあごを乗せたまま、
投げ遣りに答える。投げ遣りにもなろうと言うものだ。俺も北山も倦んでいた
のだ。
そもそもこいつと知り合っちまったのが、間違いの元だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、北山の相変わらず血色だけはいい顔を見ると、向こ
うもこっちを見ながら同じような事を考えているのが伝わってくる。
脇の壁によっかかり直す。
クソッ。見込み違いには、もううんざりだぞ。
石巻港から出港したフェリーの中は、かなりごった返している。もともとは、
近距離フェリーだったとか言う船内には、ろくな設備がない。まぁ、一番安い
だけのことはある。
関東潰滅の影響からの居留民保護の名目を立てて、ロシア軍が新潟に大挙し
て上陸してきた(という噂だ)あの時から、日本は実質二つ、いや、新潟に自
主的に樹立されたとかと勝手に宣言された新潟共和国を入れると三つに分かれ
てしまった。
関東平野は相変わらずノーマンズランドのまま放って置かれている。だれも
それどころではないのだ。
神戸大震災の復旧と北陸山陰道経由の無理な代替交通路確保で大幅に力をそ
ぎ取られた京都政府には、抗議の声明を発する以外のまともなことは出来てな
い。
で、京都政府の手から滑り落ちた、関東以北。残った最大の都市、仙台に、
東北各県庁と北海道庁の役人を集めて日本国東北・北海道統治暫定機構なるも
のが出来て、こっちはこっち、そっちはそっちという方式で何とかやっている。
これもいつ破綻するか判らない状態だ。
で、俺達の仕事は、この東北・北海道暫定統治機構の領土と、関西中央を結
ぶフェリーを使った非合法な運送屋だ。いかに危なっかしい商売かよく判るだ
ろう?
どういうコネを使ったのか俺には教えてくれないのだが、、北山がこのフェ
リーの搭乗免許を手に入れてきたときにはまだ北陸道経由という手が残ってい
た。でも、もうこれしかない。
ふぅ。英語が嫌いじゃなけりゃ、アメリカにでも行った方がましかもしれな
い。そこで、韓国系の振りでもすれば十分に暮らしていけるだろう。日本人だ
と判った途端にリンチされかねないけど。
少なくとも、新潟に居座ったロシア軍だけはなんとかならないんだろうかね。
まぁ、無理も言えねぇが。
国連は、北朝鮮南進の対応で手一杯らしいし。現実として、崩壊しつつある
韓国を救う方が優先だと思っているようだ。
それというのも……原因を言い出せば、本当にきりがない。何せ、陸上自衛
隊は日本各地に災害派遣されていて、ろくな抵抗も出来なかった(それどころ
か避難民の保護にすら失敗していたらしい)し、在日米軍はといえば、横須賀
ごと潰滅した空母部隊の保障金として日本が支出する金が足りないからと言う
ことで、ごねてストライキしている真っ最中だったらしいし。要するに、旧日
本(悲しいがこう言い切ってしまおう)が大枚はたいて保持していた安全保障
システムなど、屁の突っ張りにもならなかったという事だ。それなりに、各所
に言い訳はあるんだろうけれども。
でも俺が思うに、これは外交の失敗だ。だいたいにおいて、日本は敵を作り
すぎたのだ。あの頃の政治家共の曰く。「冷戦が終結した」? 「もう戦争は
ない」? 「これからは経済戦争の時代だ」? 「わが国は真の経済大国とし
ての責任を!」? はぁ! 実に愚かなこった。経済戦争にも同盟国は必要で
はないのかい? 一番愚かなことは、札ビラで頬を叩くようなやり方で湾岸戦
争を乗り切り、同じ手で北方領土を回復し、各国の最良のものを買い漁り……
…全ては、金、金、金。そういう態度だ。そして、金持ちの家が火事になった
とき、口で可哀想にと言うだけで村人は誰も見向きもしない。当然だ。
窓の外を見る。濡れそぼった窓。生暖かい窓。灰色の窓。海面付近まで覆い
つくした雲と雨。地上のことも知らずに相変わらず映像を送ってくる「ひまわ
り」の衛星写真。仙台の情報屋で入手したそれには、雲一色に覆われた日本列
島が映っていた。そうか、合法的なメディアからまともな天気予報がなくなっ
てから、もう二ヶ月もたっちまったのか。
「もうだれも非常事態だなんて言わなくなったよな」
うざったそうに床に寝そべった恰好で、北山が呟く。
「人間、判りきっていることは言わないもんだ」
軽く言葉を返す。
「ま、それもそうか」
再びの沈黙。
相変わらず、窓を叩いているのは雨ばかり。
「あーっ、ろくでもねぇ!」
先に沈黙に耐えられなくなった北山が、叫ぶ。叫ぶことによって、より沈黙
は深まる。
しかしまぁ、気持ちは俺も大して変わらない。
結構ぼろい商売だった運び屋も、そろそろ廃業時になっているかもしれない。
このフェリーの運賃もだんだん莫迦にならなくなってきている。俺達のような
トラック一台でやっている零細は、復興してきた大手物流管理会社にはかなわ
ないだろうし。
唐突に船が揺れる。揺れ方が変化する。少し、加速度がかかっている。
そろそろ、本気で転職でも考えてみるべきかもしれない。こいつの顔も見飽
きちまったし。
少し、立ち上がって伸びをする。
反対の舷側に面した窓の方からざわめきが広がる。
「どうしたんだろ?」
「知るか!」
北山は、俺が考え込んでいる内に、何処から引っぱり出したのか酒に手を出
している。
あ、クソッ。こいつ、貴重な日本酒飲んでやがる。
俺は、勝手にやり始めた北山を無視して、一旦通路に降りて靴を履き、野次
馬するべくざわめきの方に向かった。
ざわめきの中心たる窓から外を見上げて、思わず口をついて出ている言葉。
「なんてこったい」
俺達の乗っているフェリーの脇を、巨大な影がゆっくりと追い越していく。
あの平べったい艦型は、たぶん空母だ。そして、その空母の舷側からは、煙が
立ち登っている。
「あれは、フランスの国旗じゃないか?」
誰かが、呆然としたようにそう呟いているのが聞こえたような気がした。
1995年8月15日
日本国(京都政府) 関ヶ原町
朝の空はどこまでも遠く、青く、澄み切っていた。背筋が縮む。直射日光は
暴力的なまでに松果体を刺激する。くそっ。眩しすぎる。
俺と北山は、峠をちょっと降りた所にある、このちっぽけな駐車場に停めた
小型トラックの脇に立ち、二人して同じ様な姿勢で伸びをしていた。昨夜遅く
……というか今朝早く、和歌山の缶詰工場から荷物を満載して出立してきたの
だ。
俺たちのトラックには、一ヶ月前までとは違って、至っていい加減ながら迷
彩塗装らしきものが施されている。おまけに、小さいのが一発だけだが弾痕も
付いた。
そう、結局、俺達が経営していたささやかな運送会社は先月末日をもって解
散してしまっていた。そんでもって“緊急時にのみ編成される”と緊急に制定
された(要するに泥縄式というやつだ)予備警察隊(とやら言う名の法的根拠
のすこぶる怪しい組織)に所属する運送隊に、俺達は愛車ごと徴用されていた。
今、この関ヶ原にいるのも、先月、突然意味不明の反乱を起こした名古屋を攻
囲している(筈の)戦線北部への物資運送のためだ。
いや、正確を期すならば、名古屋が反乱したから……そして自衛隊がその早
期鎮圧に失敗したから、予備警察隊設置法が出来て俺たちが徴用されたと言う
べきか。とかなんとか理屈をこねてみても、やっている事は今までとたいして
変わっていない様な気もするが。そう、所詮はしがねぇ運び屋でしかないのだ。
いちいち荷主を探し回る必要がないだけ楽になったとも言える。
恰好も相変わらずのジーンズにTシャツだし。あぁ、予備警察隊の制服なん
てぇ物も一応規定にはあるらしいのだが、支給されてないし。いや、それどこ
ろか見たことすらない。
まぁ、同じ徴用といっても、持ったこともない銃を担がされて、いきなり前
線にほっぽり出されて、同じ日本人と殺し合わさせられるなんていうのよりは
よっぽどマシなのかもしれない。
「あちーなぁ。こうあちーと、のどが渇いてしゃーないな。缶ジュース買って
くるわ」
北山が、道路を挟んで反対側車線用の駐車場にある自動販売機の方にむけて
のたのたと歩いて行ってしまう。俺は少し、手持ちぶさたな視線を空の果てに
やった。
そうか、そういや、今日で太平洋戦争の終戦から50年なんだよな。
そんなことに不意に気付く。
50年、ねぇ。『もし、あの時、本土決戦なんて事をしていたら……』なん
て本を昔よく読んだもんだが、これこそがその50年前にありえたかもしれな
い国の形。それがこれだ。そうかもしれない。運命かな。そんなことを思って
しまう。
そして、そんなことをとりとめなく考えている俺の背後……トラックの荷台
の後ろ側から、唐突に現れる敵意を全く感じさせない……と言うよりも親しみ
を込めた気配。
「やっほー! お久しぶり!」
それでも俺は、硬直した。その声には聞き覚えがあったから。そしてこんな
ところで聞く筈のない声だったから。
半年以上のギャップを経ても、聞き覚えがある、ということを改めて思い出
すまでもなかった。俺は振り返った。
アニメ絵のプリントされたTシャツに身を包んだ彼女が、あの時と同じ暢気
そうな笑顔を浮かべながらそこに立っていた。
それにしても、何故彼女がこんなところにいるんだ?
俺は驚きを顔に出すことに長けてはいない。その時も、驚きの顔と声は反射
的に平常心の中に包み込んでしまった。
「あぁ、久しぶりだね」
弱い笑いを浮かべながら。
「なぁにぃ? せっかくの感動の再会だってゆーのに。もうちょっと嬉しそう
な顔したらどうなのよ!」
……そんなこと言われても……なぁ。これが俺の地の性格だからなぁ。
「なに? その眼は! 何か不満があるっての?」
俺は何となく言い訳をしなくてはならないような気分にさせられる。
「いや、そう、君にこんなところで会えるとは思ってなかったからさ……ほら、
ちょっと本当にさ、びっくりしたんだよ、うん」
なんで慌ててこんな弁解せにゃならんのだ。……こういう時は話題を変える
に限る。
「で、どうしてんだい、今?」
彼女は、名古屋の美大に通っているという話だったのだ。
「フッフッフーッ。当ててみよー」
ま、一応機嫌は直ったらしい。しかし、当ててみよー、って……言われても
ねぇ。
「うーむ……予備警察隊とか?」
適当に言ってみる。予備警察隊は組織としての体がなっちゃいないから、い
たのに知らないと言うことは十分あり得る。
「ブー」
一瞬で否定される。しかし……ブー、ってそんな嬉しそうにいわんでもええ
やんか。む、思考が関西弁化している。俺ももう関西暮らしが長いからなぁ。
そうか。もう4年か。
「むむむむ。そのまんま学生?」
それでも、前線を抜けて来れたとは思えないんだけど。
「やっぱりわかんない? ふっふっふ。それじゃあねぇ………………」
ジェット機の通過する音が辺り一帯を満たして彼女の言葉の後半がかき消さ
れる。俺と彼女は一緒に弾かれたように頭上を振り仰ぐ。西の方……俺たちが
やってきた方角へ向けて小さくなっていく4つの小さな点。編隊を組んだ小型
機だ。そしてそれらはすぐに山かげに姿を隠す。どこの飛行機だ?
「名古屋軍かしら」
少し首を傾げて、彼女が呟く。
「まさか。こんなところで?」
俺は、反論した。この辺一帯は、京都政府自衛隊が完全に制空権を握ってい
る……筈だ。と言うより、名古屋政府麾下の部隊にはもう戦闘機はいない。だ
からあれは名古屋軍……いや、名古屋政府自衛隊である筈がない。
「可変翼機だったわ」
へ? 何でそんな所が見えるんだ? 視力2.0の俺でも全然点にしか見えな
かったのに。
そして、気付く。
それよりも、彼女の言うことが本当なら。
「可変翼機? それじゃ……」
米軍機じゃないのか? その言葉に含まれた隠喩の恐ろしさに気が付いて、
押し黙る。そして、俺のあえて言わなかったことを彼女はあっさりと口にする。
「きっと米軍機ね」
つまりF14だ。つまりは空母艦載機。
「じゃあ名古屋じゃないんじゃ……」
「名古屋よ」
彼女が俺の言葉を途中から奪う。
何か知っているのか?
そう言いたい俺の眼を読んだのか、彼女はそのまま続ける。
「名古屋港には、アメリカの空母がいたそうだわ。ついにアメリカがやってき
たのよ」
アメリカの空母が名古屋港にいて、それでなおかつ名古屋政権が抵抗を続け
ている、と言うことは、アメリカは名古屋政府を叩くつもりはないと言うこと
だ。アメリカの空母艦隊が京都政府側に立っているのなら、名古屋政権はとう
に潰れているはずだ。
「しかしどうして……」
「どうしてって? もしかして聞いていないの? 岐阜の虐殺」
俺は、頭を振る。岐阜の虐殺? そんな単語は俺の耳にはまだ入ってきてい
ない。確かに岐阜市街で大規模な戦闘があったらしい……ついでにどうも占領
するには占領したもののかなりの損害を出したらしい、という話なら一度聞い
た様な気がするが。
「ふーん。じゃあ、京都の方では聞いていないのね。岐阜の市街戦の生中継が
国外で流れていたのよ。あれでもう国際世論は名古屋の味方になったわよ。ア
メリカが名古屋側に立って介入するかもしれないという話で持ちきりだったわ」
そしてそう言うことを知っているということは。
「……と言うことは……もしかして、名古屋から来たのかい?」
「そうね」
やけにあっさりした肯定。
「じゃあ、どうしてここに?」
「それが問題よ。当ててみて」
つまりはそこに戻ってきた訳か。俺は肩をすくめてみせる。
「そんなもん判るかよ」
「もうっ。じゃあ、いいわ。ヒントをあげる」
素直に教えてくれる気にはどうしてもならないらしい。
「さっさと言ってくれる気にはならない訳ね?」
やけに明るい笑み。
「ま、ね。少しは楽しませてよ」
「俺の困ってる顔見て喜んでいる訳ね」
「そゆこと」
そういいながらも彼女の笑みは、俺を安堵させる。
「あれ? あの時の女の子じゃないか。どうした?」
真っ赤なコカ・コーラの空き缶を二本抱えた北山が、彼女を見つけて妙なも
のを見たかの様にそう尋ねると、俺と彼女はまるで示し合わせていたかの如く
吹き出した。
「おい、どうした? 何がおかしいんだ?」
そんな北山を一人取り残して、俺と彼女は笑い続けた。
空は青かった。
通い慣れた林道は、今や、如何なる悪意が潜むかも知れない不気味なトラッ
プと化していた。
1995年10月25日
日本国(京都政府) 京都市山科区
あいも変わらず、山科の道は混んでいた。俺達の小型トラックは、さっきか
ら20メートルほどしか進んでいなかった。真正面に見えているやや傾き始め
ている太陽が眩しい。
「ねぇ、まだ着かないの?」
うんざりしきった声で、彼女が尋ねた。いいかげんタルくもなろう。
「まだだね」
補修工事中につき片側交互通行の道。その脇には青いビニールシートに覆わ
れた家並。工事車両も活発に活動している。
「もうしばらくかかるな。この渋滞じゃね」
「停戦って、秋の行楽シーズンと同義だったなんて知らなかったわ」
彼女の皮肉。それは、混んで動かない道への皮肉か、運転手の俺への皮肉か。
「紅葉のシーズンだしね」
無難にそう答えておく。車が流れ出した。ブレーキペダルを軽く離してやる
だけ。わざわざアクセルを踏み込むほどのスピードではない。交差点にようや
くたどり着いたと思った瞬間に、信号が変わる。前の車が、やや強引な信号の
解釈をして前方へと抜けていく。停止線ぴったりで停めて、先頭車両になる。
「いい天気よね」
「全く本当に」
彼女が、また唐突に口を開く。確かにいい天気だ。底を抜いたような、青。
「こんないい天気の日ってさ」
「ん?」
「その辺で、林檎でも一つ買ってさ、ガブリってかじりつきたくならない?」
「いいかもしんない」
問題なんて何処にもない。世はなべて事は無し。煙の上らない天空を見上げ
る限り、何も変わっていないと信じられる。あの空の向こうに……いや、こん
な考え方は不健康か。逃避だよな。
「買ってくるか? ちょっと停めて待ってりゃいいんだから。どうせ進めやし
ないし。その辺に売ってるだろ」
「高いわよ林檎なんて。特にこの辺じゃ」
「あ、そっか。そうだよな」
普段、野菜や果物を生で買うことなんて、まずほとんどないから考えたこと
もなかったていなかったが、言われてみれば確かにそりゃそうだ。長野にしろ、
青森にしろ、もう京都政府の管轄下にはないんだから。
「なら、いっか」
信号が変わる。交差点付近はコンクリートの簡易舗装のまま。名古屋……と
いうか米軍の空爆の爪痕だ。そのまま直進。さすがに、今度は少しは動ける。
こんな調子じゃ山科盆地をぬけて左京区に入るまでどれだけかかるものやら
知れたもんじゃない。
三カ月以上も続いた名古屋との戦争も一昨日からやっとこさ停戦にこぎつけ
たし、このままうまく行けば世の中少しはましになるんじゃないかという希望
が多少は湧いてくる。そして予備警察隊の運送隊の給料は歩合制で、しかも安
い。だから俺達は、とりあえず本部の方には一方的に休暇を宣言しておいて俺
と北山のぼろアパートで簡単な鍋でもしようかという事になっているのだ。
「ねぇさ、あんたと北山ってさ、ふだん何やってんの?」
彼女の唐突な質問。
「荷運び。何運んでるかって言やぁ主に食いもんだけどな」
「そういう事じゃなくってさ、休みの時とかよ」
「え? 俺は古本屋回りとか、パソ使って遊んでたりすっけど。北山はなにし
てんのかなぁ、俺はしらん。ふらっとどっか出かけてっけど」
「一緒じゃないんだ?」
「そうそういつも一緒じゃないさ。仕事の時は毎日、顔突き合わせてっから」
「ま、それもそうね」
半分落ちて、青いシートに包まれたJRの高架の下に入ったところでまた停
まる。東海道線も単線になったと言うわけだ。ま、御池から山科までの地下鉄
が開通したばっかだったと言うのは不幸中の幸いで、そっちで代替輸送してい
るはずだ。
「で、そういうそちらは今何してんの?」
「車の助手席に座ってるじゃない」
「いや、そういうボケが聞きたいんじゃないんだけどね」
「ほら、うちの近くのレンタルビデオ屋さんがね、空襲で潰れたのよ。でね、
御一家ぜんめつ」
「そりゃまた」
ま、最近じゃ珍しい事でも何でもない。特に、彼女の今住んでる長浜の辺り
なら本当の最前線から三〇キロも離れていないんだから。それっくらいでいち
いち悲痛な顔はしてらんないんだろう。
「でさ、そこからビデオたっくさん貰ってきちゃったのよ。だから映画見放題。
最近もう映画ばっかりみてるわ」
「へぇ……」
って、そういう事を聞いたつもりはなかったんだが。
ブレーキを緩める。クリープで京津線の廃線路をゴトゴトと乗り越える。
「でさ、仕事の方は?」
「何とかうまく行ってるわよ。最近は子供達もなついてきてね」
「子供達? そんな事してるんだ」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「あ、そっか、そっか。そういえばなんか全部話してるような気になってたわ。
今ね、あたしね、子供あずかり業やってんのよ」
「要するに保育園なわけね?」
「そうとも言うかもしれないわね。ちょっと違うけど。どっちかっていうと食
事付きの私営託児所っていったほうが正解ね。保護者いない子は預かんないで
大阪の方に送っちゃうし、あんまり保育ってしてないし」
「ふーん。言ってくれりゃいいのに。それじゃ、食いもん足りねぇんじゃねぇ
か? 俺達あの辺ちょくちょく行くし、っていうかそれが仕事だし。積み荷は
食品だし。多少減っても全然わかんねぇし。場所教えといてくれりゃ今度持っ
てってもいいぜ。安くしとくし」
「あ、それ助かるかも。あの辺ってさ、食べ物高いのよね。後で教えるわ」
「ほいほい」
片側交互通行の場所を抜けると車が少しずつ流れ出す。
アクセルの踏み込みを少しずつ強めていける。
「でもさ、この戦争がこれでちゃんと終わってくれたら食べ物ももう少し手に
入りやすくなるとは思うのよね」
「そういや、このまま戦争終わったら、俺達また失業だぜ。なんせ、臨時雇い
みたいなもんだし」
「あ、そっか。そしたらどうする?」
「また、二人で運び屋さんでもやってりゃ食ってけるけどね。ま、今ほどはう
まみがないってことだわな」
「ふーん」
「ま、少なくとも」
そう言いかけた俺の言葉は唐突な爆発音に遮られた。そんなに遠くない。前
の車との車間に気をつけながらゆっくりとブレーキを踏んでいく。
「ラジオつけるわね」
「それより、そっちのスイッチ、ラジオの上の奴押して」
彼女の指が少し迷った末に、俺の言ったスイッチを押す。
『なんだ、北山』
スピーカーから雑音混じりの声が流れ出る。
「北山じゃない。悪いが俺だ。送信者が違うからって割り増し料金ってのはな
しだぜ。今、山科。今から九条山越えるとこだ。今付近で爆発があった。なに
か知らないか?」
車の列はついに停止する。しばらくは動かないだろう。ギアをパーキングに
入れて、ハンドブレーキを引く。
『あぁ、そりゃ、名古屋の連中だろ。残念だが停戦は終わっちまった。どっち
が先かはしんねぇけど大垣じゃ、またドンパチ始まってるらしい。てんやわん
やさ』
「国連の連中が来るとか言うのは?」
『全然だめ。先遣隊とやらが高知に着くのが一週間後って話しだから、見込み
無しってやつだな、こりゃ』
「てぇことは」
『商売繁盛ってわけだろ。ま、こうなるんじゃねぇかと思ったんだ』
「ダンケ。この調子じゃ来月も契約更改せにゃならんようだな」
『まいどあり。ほんじゃ切るぞ。じゃな』
「おう」
スイッチを切る。
「今のは?」
「情報屋。無線機もそこのレンタルだし。結構長い付き合いだぜ」
「へぇ〜、そういう商売なんだ。で、さ、やっぱり戦争は続いちゃうみたいね」
「んだな」
「でさ、今日はどうするの? 中止?」
「いいさ、別に予定通りで。とりあえず、鍋にしようや」
俺は投げやりな気分を隠そうともせずに答えた。転職の用意は無駄になった
ってわけだった。
1996年1月6日
日本国(京都政府) 岡山県玉野市−倉敷市
海岸沿いの道は濡れてすらいなかった。よく乾いた舗装の良い道路。
冬だというのに。
風は冷たかったが、身を切ると言うほどのこともない。雪もなく、氷もない。
空には太陽。北陸の冬ではまず拝めることのないすっきりと光を放つ太陽。ア
スファルトのうねりに沿って車体のシャーシがきしむ音。荷台の中は満載の醤
油。隣には大きないびきをかいている北山の巨躯。左手に見えるのは瀬戸内海。
そしてクリスマス直前の攻撃で真ん中から破壊された瀬戸大橋。
せっかくの正月ぐらいはとにかくお互い平和にやりましょうと言う感じで結
ばれた二回目の停戦協定も、大方の予想通り決定的なものにはならなかった。
十日間に及ぶ停戦。こんな絶好の機会を利用しようともしなかった国連は、ま
ともにこの内戦を止める気はないらしいという風にみられても無理はあるまい。
まぁ、今回の停戦は岡山のような後方にまで敵機を侵入させてしまったという
ことに、京都政府の政軍首脳がショックを受けたせいではないかと言う話なん
かも漏れ聞こえてきていて、今回ばかりは停戦破りはなかったみたいだった。
まぁ、こんな「お互い、正月ぐらい休みましょうや」なんていう不覚悟な停戦
がまっとうに和平に結びつくはずもなく、停戦協定の十日間が終わった一昨日
から、というより三が日が終わった途端に岐阜では激しい戦闘が行われている
らしい。
そんな話はともかくとして、停戦関連の情報を買ったときに情報屋がおまけ
にしてくれた話によると、瀬戸大橋は本当は敵の攻撃目標なんかではなく、敵
の戦闘機に体当たりをかました味方の迎撃機が一緒になって墜落、何の悪意あ
る偶然か、見事ど真ん中におっこちたせいで大穴が開いてしまったということ
である。全く、現実性が無さすぎて絶対小説なんぞには書けないような類の莫
迦莫迦しい話だ。
まぁ、橋の部分を吊りさげているワイヤが切れなかったのは不幸中の幸いで、
あと1ヶ月も補修すれば使えるようにはなると言う話であるのだが。とはいえ
これだけの大建造物ともなると、補修工事といえども大工事には違いなく、そ
うすると工事には人が要り、人が集まれば必ず飯が要り……よーするに俺達は
その工事の人たちの飯の材料の一部を運搬しているというわけである。
道はいい。適度にすいているし、細くもない。おまけに、攻撃による破損と
か修復工事による片側交互通行もない。瀬戸大橋の被害と同じ攻撃でこれまた
結構な被害を受けた水島コンビナート方面の復旧活動のせいで倉敷市街の方は
混んでいるはずという観測から俺は岡山市から直で南下するルートを選んだの
だが、それが成功したらしい。
緩やかな右へのカーブ。道なりにハンドルを切る。2時間近く運転しっぱな
しで、俺は無性にアップルティーが飲みたくなった。
「おぉい、北山ぁ、ポットのアップルティー、残ってるかぁ?」
顔を動かさないまま、北山に声をかける。標識。倉敷市に入った。目的地ま
ではもう30分もかからないだろう。目的地に着いても俺達の仕事はまだ終わ
らない。運び出すところまでが俺達の仕事だ。どうせいい加減に、起きて目を
覚ましておいてもらわにゃならんのだ。
「ん? 交代か? 今どこだ?」
寝ぼけた声。
「後30分ほどで到着。で、ポットのアップルティーは?」
「ん? あぁ、あれか。残ってっかな……おう。ちょうどコップ一杯分、これ
でラストだ」
少し薄汚れたポットから紅みの強い液体を紙コップに注ぎ入れながら。林檎
の香り……甘さの中にほんの少し酸味が混じった香りがフロントグラスを曇ら
せる。
「ってことは、帰り道は缶ジュースだけか」
左手だけハンドルから離して宙を掴むと、掌中に熱源が出現する。
「ダンケ」
礼の言葉。紙コップを口元に運ぶ。舌を火傷しないように気をつけながらす
する。甘い香りと口の中に広がるほのかな苦み。
「いいじゃねぇか。そういう所、おめー、結構贅沢だよな」
こいつこそ、酒にはうるせえくせに。
「あ、すまんがこの辺からナビ頼む。俺、この辺来た事ねぇから」
「OK」
一応国道の表示に沿って行きゃ自動的に目的地に到着する事にはなっている
ものの、初めての道ってのはやっぱり不安だ。こんな所の下道なんて使ったこ
とねぇからなぁ。いままで四国に渡ったときはフェリーか瀬戸大橋だし、下道
っていっても岡山県は通過点でしかなかったから、二号線を走り抜けるだけだ
ったし。
「地図どこだ?」
「ダッシュボードん中、ねぇか?」
北山が書き込みの多いFAX地図をダッシュボードの中から引っ張り出し、
世界と照合し始める。
「もうしばらく行くと、集落。そん中、半ば過ぎた所で、信号。その先が通行
不能だから、信号の所で左折」
「了っ解」
とはいえ。その集落まではまだもうほんの少しかかるのだろう。海岸線はさ
っきまでと変わりない。
「ほう」
北山が、声を上げる。
「どーした?」
自転車の老人を、ハンドルをやや多めに切って追い越す。アクセル。
「いや、でけぇ船、タンカーかな、工事の真下通過してっけど……」
唐突に北山の台詞が途切れる。光が網膜を焼く。反射的にブレーキを踏んで
いる。後続車がいなくて幸いだった。続いて重低音。車体がきしむ程の。
「どした!?」
少々よれった針路を立て直して、路肩に車体を寄せ直す。停車。
「タンカーが、爆発したみたいだ……橋が、燃えてる」
北山の言葉は半分不要だった。俺の目にも、そうとしか見えなかった。黒煙
と、その中に見えるオレンジの炎。
「墜ち……る」
北山が呆然としたように呟く。墜落したお兄さま、ってか?
ワイヤーが切れたらしい。中央部が、落下を開始する。橋脚がゆっくりとね
じ曲がる。高さが減じているのが、ここからでもはっきりと判る。
「復旧、すんのか? あれ」
何とはなしに口にしている。
落ちたのは、ど真ん中。タンカーは橋の真下で停止したまま。まだ燃え続け
ている。二、三日は消えないだろう。
「無理なんちゃうか?」
妙に冷静に、北山が答える。
それもそうだよな。
「ま、何はともあれ、俺達の仕事がなくなった訳じゃなし」
なくなるどころか、瀬戸大橋の後始末工事がどう考えてもあるはずだから、
ここに来る仕事はますます増える。
それに。
「フェリー業界の株、買っといて良かったぜ」
……北山。お前って奴は……
気を取り直して、ハンドブレーキを降ろす。
「とりあえず、事故だからな、運ぶものは幾らでもありそうだ。出すぞ」
ギアをドライブにいれて、アクセルを踏み込む。
「名目上は俺達も予備警察隊隊員なんだしな。救援義務があるとか言われるの
は確実だかんな。あ、北山、本部と情報屋の方に連絡一本入れとこう。貸しが
作れる」
海岸線沿い、前方に集落発見。道はゆっくりと右へのカーブを描きながら集
落の中に。
「なあ」
北山が口を開く。
「一年前だよな、あれって」
あれが、東京崩壊を指していることは明白だった。
「いい天気だよな、あの時と違って」
確かに、いい天気だった。
1996年6月24日
日本国(京都政府)富山県
北陸連邦共和国富山ブロック 富山市 富山駅ビル2階待合室
富山共和国
「兄貴、久しぶりだよな」
弟は、そう言いながら俺に缶コーヒーを差し出した。
弟の受けるはずだった大学は消滅していた。だから今もこんな土地に縛り付
けられている。それは、たかが3年の歳の差が引き起こした物。
「あぁ、一年半……ぶりか」
まだ握り締めつづけるには熱すぎる缶を受け取って、缶の上部を指で摘み、
プルタブを開ける。
「………しかし、よく抜けてこれたよな」
「何がだ」
それだけで判っているはずの弟は、訊ね返す。
「大変なんだろ、倶利伽羅の方」
倶利伽羅峠では、北陸連邦軍……金沢駐留予備警察隊反乱部隊と富山共和国
軍……富山独立自衛隊がこのやたらと降り続いている雨の中、泥まみれで激戦
を展開しているはずなのだから。少なくとも、公式報道ではそういうことにな
っている。もっと信頼の置ける、北山の情報網の方でも。
富山共和国国民からなる富山独立自衛隊。……そして、弟の年齢ならほぼ全
員徴兵されているはず。そして、こういった事に、例外はありそうにない。
「まぁな」
弟は複雑な笑みを見せる。俺と弟の間には三年があるだけだった。
ずいぶんとまぁ遠い三年。そして一年半。
しばらくの沈黙。俺はコーヒーの缶の縁に唇をつける。熱い液体が口の中に
広がり、甘みが舌の裏に鈍くまとわりつく。安っぽい香り。不味い。
弟が、ジャンパーの内ポケットから煙草を一本取り出す。火をつけるのを黙
ってみている。コーヒーの残りを一気に胃の中へと直接注ぎ込む。珈琲の名に
は値しない液体。
「缶」
見なかった一年半のうちに煙草を覚えていた弟に、俺は空き缶を手渡す。弟
は一回ゆっくりと煙を吸い込んで、吐き出す。空き缶の縁に灰を落とす。動作
が完全に手慣れた物になっている。
「なんで、帰ってこなかった」
弟の声には、責める響きはなかった。それは事実の確認。
「仕事があったからな」
眼を見ずに答える。
今回こうして故郷で弟と会っているのも、仕事で立ち寄ったから。それは事
実。そうでなければ、実家あてに立ち寄ると電報を送ることもなかっただろう。
この時刻、この場所に駅にいるという事を告げることも。
広く、透明なガラス越しに、梅雨の雫はしたたり落ち続ける。
そして、少しの嘘。仕事があるというだけではない。実家には、帰りたくな
かったのだから。そういう仕事を選択したのだから。
「大学を辞めてまでか?」
……それを言われると。ツライ。
少なくとも、2年間は大学をサボり倒していたのだから。
「ブンガクじゃ、喰っていけない」
いや、そんなことはない。しかし……俺にそっちの才能はない。つまるとこ
ろ、国家資源の無駄遣い。良心の呵責。
わずかにそっぽを向いて、つけ加える。
「だが……親父さまには悪かったと思っている。伝えといてくれ」
これは本当だ。東京崩壊前、あの在学当時、一月3万円ちょっとの仕送りは、
病弱な親父にとって充分以上の負担になっていたはずだ。弟に親不孝扱いされ
てもしかたない。いや、弟には俺を責める権利がある。
「まて……もしかして。まだ、連絡は行っていなかったのか?」
弟が怪訝な視線を送る。
「連絡? なんのだ?」
何も、取り立てて連絡といえるようなものは受けていない。
弟は、そのまま暗い顔を作って言いづらそうに告げる。
「そうか……まだ知らなかったのか。親父の診療所な……。爆弾の直撃……。
喰らっちまったんだ」
弟の言葉に、思考がついていかない。
「……なんだって?」
まさか。
「加賀の連中の、誤爆らしいくてな。つい、一昨日のことだ」
言葉がつながっていく。事実が頭の中へとゆっくりと染み込んでいく。
「じゃあ、親父たちは……」
他人の声のような確認の言葉。
「葬式は、もう終わった。親父も、お袋も」
ちょっと待て!
「そんな連絡は受けていない!」
叫んでいる。
そんな連絡は受けていなかった。まだ、思考が拒絶していた。
一昨日……俺はまだ、その前日に独立を宣言した富山共和国とやらへの援助
物資をたっぷりと詰め込んで、伏木港に向かう輸送船の上にいた。なにも感じ
ず、何も見ていなかった。その間に……
「だから俺にも一時休暇が当たったんだ」
そうなのかもしれない。虫の知らせなんてものはない。きっと、これも報い
なのだろう。何かの。
「…………なるほど」
そう応えるのが、やっとだった。
「俺は、加賀の連中を、自分が許せるとは思ってない」
あぁ、こんな眼なら。何度も見てきた。あの日から、何度も。
「明日には、倶利伽羅に戻る事になっている」
激戦地。
泥、泥、泥。時折飛ぶ銃弾。悪辣な仕掛け罠。そう、知っているはずだ。
「これ、渡しておく」
長方形の紙切れを渡す。一応所属していることになっている、予備警察隊の
部隊番号と、その連絡先。
「お前の葬式出す時に、連絡がないのは困るからな」
そしてやっぱり。
雨は降り続いていた。
(続く)
Invisible Tree(=不観樹 露生)
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