霙の街


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霙の街


国境警備

	2001年11月20日
	富山共和国 倶利伽藍峠国境検問所

 目の前に立ちふさがっている緩やかな山稜。その稜線が自然と協力しあって
形作っている輪郭。その上に重なる人の目にしか見えぬ線。国境地帯は、今日
も静かだった。その上空を覆う空は今日も曇りだった。そして、いつになった
ら降り止むのだろうか。そんなことをつい考えてしまうのだ。この永遠のよう
に冷たく鬱陶しい、大粒の、雨。
 今日のところは幸いにしてというか、当然のことながらというか、何事も起
こっていない。むろんそうじゃなけりゃ困るのだが。そして俺は…………俺は
まだ孤独だった。

 睫毛に水滴がついている。視界に入ってくる光線の方向を微妙にゆがませて
いる。昨日の夕方辺りからしんしんと酷く冷え出している。今年がよほどの暖
冬でないのならば、そろそろ雪が降り出しても……そして積もり出してもおか
しくない季節になってしまっている。雨は相も変わらず、冷たい。

 一昨年、昨年と続いたこの国境でのお勤めの二年間。そのさほど楽しいとは
言えない経験から言っても、雪が降り積もってしまいさえすれば俺の仕事はあ
らかたのところ無くなってしまう筈だった。そう、国境警備隊員としての仕事
は。降り続く雪が全てを覆い隠してしまいさえすれば、陸路はるばる山を越え
て国境を通過しようなんてことを考えだす馬鹿者はまずいなくなるはずなのだ。
 第一、我らが冬将軍の訪れと共に歩哨なんて事自体がほとんど不可能になる。
我らが“自由”市民の“民主的”な代表にして守護者たる富山共和国自由政府
の、“国民に心の奥底から愛されている”官僚のお歴々にしたところで、装備
の不足によって熟練した警備隊員を凍死させる事は望んじゃいないだろうし、
ましてや、ただでさえ毎年のように赤字を計上している予算の中から遺族弔問
金を支出することは望んでいないだろう。
 そして俺は旧国道八号線が国境線を貫く地点、倶利伽藍トンネルを見下ろす
詰め所で雪の降りしきる中、ゆっくり中学に通っていたガキの頃からの趣味だ
った下手なSF小説でも書き綴るのだ。大川のアホは怒るかも知れないが、そ
んなことは別に問題ではない。俺はどう考えても全く無用としか思えない歩哨
任務で凍死するのは御免だ。俺にしてみりゃここで生まれたというだけで家族
の一人もいないこの国に守るべきものがあるわけでもなし。これで正月休暇に
一遊び二遊びするのに充分な特別割増給与が出るんじゃなかったらとっくに加
賀の方にでもむけて脱走しているところだ。
 どうせ今日も国境線を越えてくる奴なぞ居るわけもない。俺はそう考えなが
ら暇つぶしに近未来世界を舞台にしたSFを順番に思い浮かべた。今年は20
01年。まあ、人類はまだ生き残っている。格段、進化したようにも見えない
し、文明も崩壊してはいない。コンピューター知性の叛乱も起こっていない。
結局世界連邦もできなかったし、実用にたる人工知能もまだできていない。ま
あ、宇宙人もまだ地球に来ていない(はずだ)。ただ、ちょっとばかり変わっ
たことと言えば、ここいら一帯で文明の規模が酷く縮こまっちまったというこ
とだけだ。
 宇宙……宇宙。この分厚い雲の遥か上、俺の憧れの場所の大半は未だ人類に
とって未知のままだ。そして、あの事件以来の各国の経済的事情って奴のせい
で月軌道の向こうは、いまだ実質的に閉ざされている。
 そのことを想って溜息を吐いたとき、無線機が鳴った。何だろうか。定時連
絡の時間はもうとっくに過ぎた筈だし、交替時間はまだ先だ。その昔にはふん
だんにあった物でも、今のうちの国で自給できない物が幾つかある。ボタン形
の水銀電池がその一例だ。お陰で単3形のニッカド式充電池を大量につかった
ごつい無線機が俺達には支給されている。加賀の連中が作った無線機はもっと
小さくて優秀だ。こんな所に元は県であった各国の技術格差がもろに表れるの
だ。同盟国である(と、同時に旧日本国内諸国の中では最大の人口と工業力を
持つ)日本国京都政府からの輸入電子機器は新潟人民共和国と直接睨み合って
いる親不知の最前線の方に優先的に送られてこっちには滅多に届かない。
 そういう訳でわが国の独自技術の精髄を肩から降ろしてスイッチを入れる。
これでも一応周波数変調デジタル秘話装置ぐらいは付いている。まあそれだけ
でもましだと思うべきなのだろう。第一線クラスの部隊じゃないのだから。
 無線機の小さなモノクロ液晶画面に受信装置の汎用システムのウィンドウが
立ち上がって、すぐに明瞭な声が響く。
「こちら霊柩車。何かありましたか? どーぞ」
 霊柩車が俺の国境警備隊員としてのコードネームだ。ついでにうちの検問所
のコードネームは火葬場。無論、この最悪で露悪的で下品なコードネームは断
じて俺の趣味とは相容れない。この一事を取ってみても国境警備隊の上層部の
ジョークのセンスがどれほどのものか判る。お里が知れるって奴だ。
「火葬場よりこちら墓石。特に連絡事項は何もないが。どうせそっちはヒマだ
ろーと思って声掛けてやっただけだ。明日はお前非番だったよな。俺も非番だ。
どーだ、飲みに行かんか? どーぞ」
 同僚で悪友の北山だった。
「まーったく。んなことして、大川のアホに見付かるとまたゴチャゴチャとう
るさいぞ。そんなくだらん事で無線を使うべきではない。君たちには祖国と郷
土を守ろうと言う精神が不足している。ってな。どーぞ」
 俺は直接の上司の大川の口調を真似て答えた。あちらで思わず吹き出してい
る気配がする。いいんだ。給料低いし、どうせ規律なんてないも同然だ。
 まあ、どう足掻いてもしょせん俺達加賀国境検問所隊は二流クラスの部隊だ。
新潟民主主義人民共和国との熾烈な実戦を生き抜いてきた精鋭の朝日守備隊や
旧富山県警山岳レンジャー隊の流れを汲む立山山岳守備隊、人の行き来が多く
まともな検問所としての仕事が絶えない飛騨国境検問所隊に比べれば士気も上
がらず締まらないことおびただしい。まあ。名古屋政府の子分の北陸連邦と京
都政府の飼い犬の我が富山共和国は、冷たい国交断絶の関係を暖め合う仲だ。
人の行き来がないのも当然だが。
「あんなダラボチャ気にするこたないって。どうせもうじき定年でどっかにポ
イだ。で、飲みに行くのか行かんのか。総曲輪の奥になかなかええ店を見つけ
たんでな。どーぞ」
 まあ、いいけどね。俺も北山もどうせ上司の大川にはしっかりと睨まれてい
る。さてと……明日か。北山がいい店と言うからには信用できる。静かに飲め
る安くていい店という情報に間違いはないだろう。しかし残念だが。
「すまんが明日は一寸した先約があってな。大事な用なんだ。また今度にして
くれ。どーぞ」
「ふーん……」
 少しの間がある。何となく詮索されているような気分になる。
「ま、頑張れや。ほんじゃま交信終わり。どーぞ」
「ではでは。どーぞ」
 北山の話し方に隠しておいた先約の正体を見透かされたような気がして軽く
冷や汗をかきながら無線機のスイッチを切る。
 気が付くと防寒着の上から俺の身体を好きなように叩き続けている雨の中に
小さな氷の固まりが混じっている。防寒着の表面ですぐに溶けるものではある
が。霙だ。
 ああ、やだやだ。また雪だ。
 学生時代……俺もこの国もまだ何も知らなかったあの頃にはすでに流行遅れ
になっていたクリスマスソングを思い出す。あの歌の歌詞ではクリスマスイヴ
の夜になって初めて雨が雪に変わるんだったな。まったく。長閑な話だ。太平
洋側ってのは。
 そう言えば、あの頃は温暖化の影響だのエルニーニョだのとか言って、結構
毎年暖冬が続いていたような記憶がある。俺は軽く身震いするとつい最近何百
年ぶりかに引き直されたばかりの国境を構成している稜線の監視任務に戻った。
 冷たい霙のカーテンを透かして加賀――北陸連邦の国境監視兵の姿が見える。
あの冗談のような東京崩壊の後から出来たこんなバカな国境なんてモンのせい
でお互い苦労させられるよな。あの頃はお互い同じ日本人だった筈なのに。何
となく霙の向こうでほとんど点にしか見えない加賀の国境監視兵も同じ事を考
えている様な気がして、心の中で語りかける。
 一応規定で定められている交代の時間までまだ後二時間余り。俺は西の空の
方を見つめた。嫌になるほどに均一な、灰色の空。霙混じりの雨から変わりは
じめた雪が止みそうな気配はない。
 今年も長々と雪の中に閉じ込められるのだ。寒く冷たく湿って重っ苦しいこ
の国の……富山共和国の冬が始まろうとしていた。



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