2001年11月21日
富山共和国 富山中央区 総曲輪
客の回転率を少しでも上げようという算段なのか、単に椅子に出す投資をケ
チっただけなのか。座り心地のすばらしく良い喫茶店の窓際の椅子の堅すぎる
クッションの上では、早くも尻の下が熱く痛くなっている。
椅子の上で少し足を組み替える。そのついでに読みさしの本から視線を上げ
て窓の外をふと見る。いつの間にか路地の真ん中でさえも雪が人のふくらはぎ
程度まで積もっているのに気付く。表通り、旧国道を市電が通り過ぎる音がゆ
っくりと遠ざかっていった。いつもよりずっと素早く静けさが戻る。雪のせい
だ。
そして街の生み出す大小さまざまなざわめきが持っているエネルギーを結晶
同士の微細な隙間に吸収しながら、雪は降り続ける。
椅子の背もたれにかけた上着の内ポケットの中に手を伸ばし、ポケットテッ
シュの袋を取り出す。ティッシュを一枚取り出して窓ガラスにびっしりと結露
している水滴を軽く拭き取る。普通ならこれで窓の外の視界がクリアーになる
はずなのだが。内外の気温差はそれすらも打ち消すほど大きいのだろう。拭く
そばから白っぽく結露していって、いっこうに見通しはよくならない。
俺がこの喫茶店に入って来たときよりも雪の降り方が更に激しくひどくなっ
てきているような気がした。窓に面したほんの小さな小路の向こう側すら降り
しきる雪片の群の彼方にぼんやりとかすんでしまって見えにくくなっている。
からんころんと気分のいい軽い鈴の音がした。この喫茶店の戸口には鈴が取
り付けられているのだ。よくある電子チャイムの画一的な音なんかに比べれば
余程風情がある。
やっと彼女がやって来たのかと思って俺は入り口の方に視線をやる。マスタ
ーと顔馴染みらしい黒いコートの初老の男性がカウンターに向かって何か話し
ながら肩に積もった雪を払っている。また、人違いだったようだ。
店の壁に掛かった時計に視線をやる。もう待ち合わせに約束した時間から二
十分も過ぎている。俺が戸口の鈴を鳴らした時間から数えるならもうすでに四
十分になる。
電停からここまで歩いてくる間に俺のスノーブーツにこびり付いた雪もこの
喫茶店の暖房で溶けてほとんど乾いてしまった。こんな時、何があろうと絶対
に約束の時間の十分以上前に着いていなくては気が済まない自分の性格を損だ
と思わずにいられない。とはいえ、遅刻は出来ない。彼女を待たせるなんて絶
対に出来ない。とても俺には。
読み差しの和製ヒロイックファンタジーに視線を戻す。こういう時に何も言
わないままで客をほっといてくれるこの店の雰囲気が俺は好きなのだ。結局の
ところあの騒ぎで卒業できなくなった大学に籍を置いていたあの頃、下宿のす
ぐそばにもこんな雰囲気の店があった。俺は誰にも邪魔されることなく真夜中
過ぎの閉店時間いっぱいまでコーヒー一杯で貪るように古本屋で手に入れたS
F小説を読みふけっていたものだった。
やっと猫舌の俺にとっての適温にまで冷めてきたアップルティーを一口すす
りながらページをめくる。東京が壊滅して作者の行方さえ判らない状況ではこ
の物語もついに未完のままに違いない。古本屋のつてをたどって苦労して手に
入れ直したんだが、その表紙は俺の手に渡るまでに何度も何度も読み返された
せいだろうか、カバーの端が薄汚れている。
暫くして豹頭の主人公とその旧友とがそれぞれ別の国の将軍となり、攻め込
んだ国の小さな寒村でやっと再会するシーンまで読み返したところで、再び入
り口の鈴が来訪者を告げた。
視線を上げると、あきらかに見覚えのあるフェルトのような地の薄緑色のコ
ートを着た人影が、戸口のところで身体に積もった雪を払って、こちらに近づ
いてくる。俺は文庫を黒い革製のショルダーバッグに仕舞いながら目を細める。
「ゴメンゴメン、ほら、この雪でバスが遅れちゃって。待ってたでしょ」
俺の待ち望んでいた姿がそこにあった。彼女は走ってきたらしく、息を少し
切らしている。ほほがほんのり上気している。それを見るだけで待たされたこ
となどまったく気にならなくなる。俺は自分に出来る最高の笑顔でもって応え
る。
「ああ、ほんの……ホントにほんの少しだけな」
たかが三十分や一時間など。十年近くもの間待ち続けたことに比べればほん
の少しだ。大した事じゃない。全くだ。
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