霙の街


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霙の街


始点想記

	1995年1月6日
	日本国富山県 JR西日本石動駅

  石動駅に停まったきり、金沢行きの鈍行列車はなかなか発車しようとしなか
った。
  俺はセーターの左の袖口をわずかにまくり上げて、大阪は日本橋でさらに買
いたたいた思いっきり安物の腕時計のアナログの文字盤に視線を送った。この
駅で停まってから少なくとも五分もの時間が過ぎている。
  おかしいな……もう動き出してもおかしくない頃なんだが。
  そう思ったとたんに車両ががたんと音を立てて揺れた。
  やっと脱出できる。ぐちゃぐちゃとしたしがらみと因習に満ちたこの土地か
ら。
  俺はこの、たった一週間余りの帰省で、既に実家で寝起きすることにうんざ
りしていたのだ。親父とお袋には悪いが、俺には気ままな一人暮らしの方がや
っぱり性にあっている。そして、彼女との思い出のある、いや、在りすぎるこ
の山河もとりあえず当分の間は見ずに済むのだ。あのあっけない結末を向かえ
た想いの後遺症が、堅く乾いた瘡蓋になって落ち着くまで。傷ついた古いレコ
ードのように記憶が一定の個所を繰り返すのを止めるまで。俺は少し感傷的に
胸の内に呟いた。
  しかし、微細な水滴の群に覆われた車窓越しに見える薄い単色の雪景色はな
かなか動き出そうとしなかった。石動駅から発車するべき時刻はとうの昔に過
ぎてしまっているの筈なのだが。
  ダイヤが乱れるようなことでもあったのだろうか。
  そう思って、隣りに置いておいた黒い革製のショルダーバッグの中からポケ
ットタイプの時刻表を取り出して丹念に点検する。しばらくして、ちょうどこ
の駅でこの鈍行を追い越す筈の新潟から福井までの特急を見つける。こいつが
まだ来ないのを待っているせいに違いない。発車の時間をもう五分も過ぎてい
る。
  まあ、金沢での乗り継ぎのための待ち時間は三十分ほど取ってあったはずだ
から、この電車が多少遅れたところで乗り過ごす羽目にはならないだろう。
  彼女と関わりのある《金沢》という言葉が自分の心の中で自然に出てくるの
がとても不思議だった。
  京都の下宿の方で午後十時からと言って入れておいたバイトにはゆっくり間
に合うとは思うのだが。遅れてバイトをクビになんてなったりした日には、い
くら未曾有の好景気だとて、あんな割の良いバイトは当分見つかるような気は
しない。
  あんな事があった後にもかかわらず、俺はそんな事を考えている。この間か
ら聞き続けている中島みゆきの「御機嫌いかが」の歌詞を思い出す。そう、人
間とは血を吐いても水を飲む。所詮は単なる生き物なのだ。
  この春に……もう何日もない近くに大学受験を控えているというのに富山駅
のホームまで見送りに来た弟が自販機で買って持ってきてくれた、ホットの缶
コーヒーの残りを俺は一気に飲み干した。冷め切らずに妙に生ぬるい。それが、
俺と実家の関係を軽く暗示している。煮えきらず、つながりを断ち切り難く、
そして俺はどこかへ逃げ出したい。大学のSF研の友人から借りたル・グィン
の「闇の左手」が読み差しのままスポーツバッグの方の中にあるのは判ってい
る。だが、今はまだどうも続きを読む気にならない。
  俺は、コーヒーの空き缶を窓枠に置いて、一つ軽く伸びをする。
  四人掛けの箱座席の向かいに座っている小柄な女性が文庫本から顔を上げて、
俺はその姿勢のまま視線が合う。
「なんか、なかなか動きだしませんね」
  そのままの勢いで話しかけてみる。
  まあ、どうせ先は長いのだ。まだあと六時間はある。カジシン言うところの
行きずり共同体を形成するのも悪くはあるまいと思ったのだ。もっとも、彼女
が一応平均以上の容姿をした人なつっこそうな若い女性じゃなかったら話しか
けたかどうかと問いつめられたら俺だって返答に窮したに違いないのだが。ま
あ、男とはそんなモンだろう。俺一人が責められる筋合いのものではない。
「ええ、どうしたんでしょうね」
  彼女は手にしていた缶入りの烏竜茶を置いて小首を傾げながら答えた。思っ
たより良い声をしている。訛のない発音の綺麗な、明るい印象のアルト声。
「何かあったんですかね」
  少し言葉を切る。そのまま話題を変える。
「そちらはどちらまでですか?」
  さっき彼女が脇にかけている薄い緑色のフェルト地のようなコートの中から
18切符を取り出して確認しているのを見ている。18切符はある程度以上長
距離でないとペイしないものだし、きっと彼女も長距離だ。俺も18切符をポ
ケットから出して見せて軽く笑いかけた。
「名古屋まで。そちらは大学生ですか?」
「ええ。まだ教養ですけどね。私は京都までで」
  彼女が少し警戒を緩めるのが判る。少し話が弾み始める。彼女は名古屋の美
大生だと言った。俺は京都の文学部生だと告げた。どの大学のかは告げなかっ
たけれども。どうせ反応が予想できるから余り言いたくなかったからだ。なん
とはなしに流れ出す穏やかな時間。まあ、とりあえずはいい暇つぶしになる。
当面の共通の話題として18切符から今まで経験した鈍行列車旅行の話が取り
合えず盛り上がりつつあるとき、アナウンスが入った。
〈ただ今ダイヤが乱れております。申し訳ありませんがもう暫くお待ち下さい〉
  通路を挟んで向かい側にあるボックス席をまるまる一つ占拠している詰め襟
学生服の男……血色が良くやたらと太っていて高校生にしてはやたらと老けた
顔だ……が、ポケットから伸びたイヤホンのコードをいじくりながら首を傾げ
て妙な顔をしている。
「本当に何か在ったのかしら」
  手入れの行き届いているらしい形の整った眉を軽くひそめて彼女が呟く。困
ったもんだ。と思いつつも、心配げな彼女の顔もいい。
  ふむ。俺は少し軽く鼻を鳴らす。
  こちらの会話が聞こえたのだろうか。学生がイヤホンをいじるのをやめて、
俺達の方に向かって言った。
「良く判りませんが、どうも何か在ったようですね。FM富山が変なんですよ
ね」
  一向に情報量のない台詞だった。何かあったことは百も承知だ。何がどんな
風にどの程度変なのかということが知りたいのだ。
「AMはどうですか?」
  AMならもっと詳しく判るはずだ。局数も多いはずだし。
「このラジオじゃぁ、他の局入らないんですよ」
  学生は学生服のポケットからテレホンカード状のものを取り出して肩をすく
めて見せた。FM富山のでっかいロゴが入っている。FM富山に始めからチュ
ーニングが固定されているタイプのカード型ラジオだった。なるほど。たしか
に、こういう物はこんな時には余り役に立たないものだ。
「とにかく、昼の歌番組……東京がキー局になっている筈の放送を聞いていた
ら、雑音と同時にぷっつりと途切れてましてね。それっきり何も入らなくなっ
たんですよ。ちょうど今さっきは東京から生中継の番組の時間でしたからね」
  すると少なくとも雪のせいとかそういうローカルな事態じゃないということ
の可能性もあるって訳だ。
  俺は、フイッと立ち上がった。
「ちょっと車掌さんに聞いてきましょう。何があったのか判るかもしれないし」
  そう言って彼女の方に軽く笑いかける。
「あ、私もいっしょに行きます」
  彼女が立ち上がる。どうなっているのか訊きに行くのに俺のようなむさい男
が一人より女性が一人ぐらい居た方が車掌の愛想もよくなりそうな気もする。
そう考えて軽く頷く。
「なら、一緒に行ってみますか」
「俺も行きますよ。金沢に早く着きたいんだ」
  学生も立ち上がる。俺は軽くうなずく。
「あ、俺は北山といいます」
  学生が遅まきながら自分の名前を述べる。俺と彼女も、それぞれ名前なんか
を名乗りながら、座席を器用に避けつつ前へと進む。なんとはなしに、車内の
座席をそれなりの密度で埋め尽くしている乗客の間に、不安の表情とかわし合
われる囁きが蔓延しているのを感じる。何かが起こっている。そして何がおこ
っているのかに関する情報はない。
  しかし、その時は。まだどんなに大変なことになっているかだれも想像だに
できなかったのだ。

  結局、俺が京都に着くことが出来たのは、次の日の夕暮れだった。もちろん
バイトはクビになった。そして、何が起こったのかが判ったのは、更にそれか
ら一週間も経ってからだった。


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