霙の街


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霙の街


偽黄金週

	1995年5月3日
	日本国福井県 福井市北25キロ

  寒い。なぜ、こんなにも寒いんだろう。皮肉だ。よりによってこれがゴール
デンウィークだなんて。全てがなんにも関係ないことになってしまった。薄い
ワイシャツにしか覆われていない両腕を抱え込む。
  こんなに寒くなるんだったらもう一枚着て来るんだった。神保町での古本買
い漁りに備えて荷物を軽くしすぎたか。それならそれで上にもう一枚くらい着
てきても良かったよな……
  春の夜の大垣夜行はこんなにも寒くて。そう、こんなにも。そして不定期に
揺れる音。エンジンの音。微かなガソリンの匂い。排ガスの匂い。この列車は
ディーゼルだったろうか。そんな莫迦な。なんで、俺はそんな列車に乗ってい
るのだ。東京はもうないというのに。水道橋の駅前も、SFセミナーもないと
いうのに。東京でのSFコンベンションなんてもう二度とあるはずもないのに。
「おい」
  そんな莫迦な。この冬から全てが変わってしまった筈なのに。
「おい、起きろ、いつまで寝てるんだ。そろそろ交替だぜ」
「ん……、あぁ。北山か」
「何寝ぼけてやがる」
  脇腹の辺りが何か堅いもので小突かれる。俺は軽くまぶたを擦った。大垣夜
行の中なんかではなかった。俺が腰掛けて眠っていたのは小型トラックの助手
席だ。尻の下が、痺れるように熱い。
「もう交替の時間だぜ。そろそろ準備しろ」
  俺は起き直る。頭の中にかかっていた霧がようやくの事で薄れていく。肩の
筋肉を伝う寒さに一瞬だけ身震いする。眼底から延髄の中央部に向かって冷た
く意識が冴えてくる。俺は軽く伸びをして首を傾ける。二三度。音がする。
「いまどこだ?」
  北山は、ハンドルから手を離さずに答える。
「もうすぐ石川県。さっき福井市を抜けたとこだ。クソッたれな事に木の芽峠
でもろ渋滞に引っかかってな。そっから夜中だというのに40キロしか出やし
ねぇ」
  ふん……。軽く鼻を鳴らして返事をして、時計を見てみる。午前4時ちょっ
と過ぎ。この季節なら、もう夜が明けにかかる時間。まだそんなところにいる
のか。夜明けまでにせめて金沢にはたどり着くつもりだったっていうのに。
  まだ薄暗い外界をヘッドライトが照らす。前の車のテールランプが赤く、延
々と遥か向こうに続く。昔は良かった。幼い頃ならこの長蛇の列を、旅行を楽
しんだものだ。今やこれは、生活の手段で、ゴールデンウィークだって事を勘
定に入れてもやっぱりこの混み様は俺を苛立たせずにはおかない。
  サイドガラスの向こうの夜を眺める。暗い顔の青年が闇の中から俺の方を見
ている。顎の下に無精髭が細々とはえている。頬はこけている。眉の間は軽く
しかめられて。目玉だけがぎょろりと何かに不満を持っているような。クソッ。
なんて貧相な。それが俺の顔だ。
  書きかけの小説のような情景。一年前であったらまさにフィクションの中で
しか存在し得なかった。関東平野の潰滅、そして関東平野の大半が死の土地と
化してしまったがために大動脈、というより脳髄と心臓を叩き潰された上に南
北に分断されて北陸道経由で辛うじて一つにつながっている日本。そして俺達
は、この今にも壊れそうな日本を守るために働いている。いや、と言うより俺
達自身の生活を守るため、と言うのが正しいんだろう。休学届けはもう出して
あるが、あの混乱を極めてしまった大学にいまさら戻れるとは始めから思って
いない。それに、大学に行く気ももはや起きなくなってしまった。いつか、も
しかして落ち着いたらもう一回やり直す気になるのかも知れなかったが。今は
結局自分にはそんな気は起きないだろうとも思っている。俺は今ここで何かを
しなくちゃいけない。そんな焦りだけが身体を支配している。
  で、いま俺が何をやって喰っているかというと、運び屋だ。と、偉そうなこ
とを言っても大したものを運んでいるわけではないが。今回の目的地は仙台市。
北陸自動車道が先日の大事故で通行不能になっているために国道8号経由。結
局のところ壊滅的な被害を受けてしまった物流を担っているのは、関東を一切
通らない道だった。
「それにしても……この国は一体どうなっちまうんだろうなぁ……」
  北山が呟く。もう聞き厭きた問いだった。
  俺が返答する気がないのを感じとったのか、そのまま別のことに話をかえる。
「テープかけるぞ。橘いずみでいいか?」
  俺の生返事を肯定と受け取ったのか、北山はカーステレオのスロットにテー
プを送り込む。奇妙に明るい虚無的な歌詞が車内を暗く虚ろに幻惑する。不快
ではない。俺は、そのまま物思いに耽る。
  大阪に集まった辛うじて難を逃れた国会議員たちと、各県の知事たちが、取
りあえず、臨時議会を形成している。わずかな救いといえば、天皇が新年早々
という批判を浴びながらもアジア方面に外遊に出ていたために年号だけは変わ
らずに済んだ事ぐらいか。今は臨時政府と一緒に京都御所にいる。
  不意にブレーキが踏まれる。俺はつんのめる。シートベルトが胸と腹を締め
付ける。ダッシュボードに左手を突いて身体を支える。
「どした?」
  口調に非難の気配を加えて尋ねる。
「前の車が急に……ついてねぇ。検問らしい」
  軽く舌打ちしながらの答えに、俺は車の天井を仰ぐ。
「今回は別にやばいものは積んでないよなぁ」
  「今回は」のところにアクセントを少しおいて。
「その筈だな。お客さんたちのいうことを信用するなら」
  軽く嘆息して。
「まぁ、警察もご苦労さんなこっちゃ」
  北山の答えを聞きながら、俺は腕を頭の後ろで組み直した。わずか一週間余
りの間をおいて起こった関東潰滅と神戸の大震災にも関わらず、意外と治安は
保たれている。まさに、警察もその中枢を失ったっていうのにご苦労様としか
言いようがないのだが。自衛隊は、神戸と関東辺縁部の避難救助活動に手を取
られていて、治安出動なんて思いも寄らない状態だというし。
  車一台分の加速と減速。それが数回繰り返す内に、いつの間にか俺達の順番
が来たようだった。制服の男が、運転席の窓ガラスに顔を寄せてノックする。
北山は窓ガラスを下ろして答える。
「どちらに向かう荷物ですか?」
  よく見ると、警察の服装ではない。よく似ているが、この制服は自衛隊だ。
北山もそのことに気がついたらしく軽く目配せを送ってくる。
「仙台までですが。何かあったんですか?」
  北山が若い自衛官の機嫌を損ねないように精一杯の愛想笑いを見せて尋ねる。
「仙台なら通行不能ですよ。いつ交通が回復するか判りません。出来れば、こ
こからまっすぐ関西方面に引き返していただきたいのですが」
「冗談じゃない。運賃は前金で貰ってしまってあるんだ。飯の食い上げになっ
ちまう」
「ちょっと待って、あんた自衛隊だよな?」
  俺は北山の反論を途中で遮った。
「なんで自衛隊がこんなところに出てきているんだ?  まさか有事でもあるま
いし」
  その自衛隊員は、困ったように頭を掻いた。
「それがどうやらその有事らしいんですよ。わたしもね、ほら、下っ端なんで
なんにも知らされていないんですけどね。とにかく、新潟県全域は通行不能で
すから」
  新潟?  今あの辺りに何かがあったとなると、下手すりゃ日本は潰滅した関
東と合わせて完全に二つに分断されちまったということになる。この国は本当
にどうなっちまうんだ?  果たして日本という国は少しでも形を残して存続で
きるのか?  俺は、その不気味すぎる予感に軽く身震いした。



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