1995年7月2日
日本国(京都政府) 紀州水道
雨は激しく、包み込むように生暖かく、窓の外を叩いていた。フェルト地(の様に見える)のカーペットの敷き詰められた床はゆっくりとしたリズムで
わずかに揺れていた。
俺は周囲の空気に漂っているざわめきに、軽く耳を澄ませて、一つ欠伸を噛
み殺した。
「後どれくらいだろ?」
トイレから戻ってきた北山が、声をかけてくる。
「………さぁねぇ……予定通りなら、もうとっくのむかしに着いていてもおか
しかぁないはずなんだけどねぇ……」
俺は、あぐらを組んだ足の上においたショルダーバッグにあごを乗せたまま、
投げ遣りに答える。投げ遣りにもなろうと言うものだ。俺も北山も倦んでいた
のだ。
そもそもこいつと知り合っちまったのが、間違いの元だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、北山の相変わらず血色だけはいい顔を見ると、向こ
うもこっちを見ながら同じような事を考えているのが伝わってくる。
脇の壁によっかかり直す。
クソッ。見込み違いには、もううんざりだぞ。
石巻港から出港したフェリーの中は、かなりごった返している。もともとは、
近距離フェリーだったとか言う船内には、ろくな設備がない。まぁ、一番安い
だけのことはある。
関東潰滅の影響からの居留民保護の名目を立てて、ロシア軍が新潟に大挙し
て上陸してきた(という噂だ)あの時から、日本は実質二つ、いや、新潟に自
主的に樹立されたとかと勝手に宣言された新潟共和国を入れると三つに分かれ
てしまった。
関東平野は相変わらずノーマンズランドのまま放って置かれている。だれも
それどころではないのだ。
神戸大震災の復旧と北陸山陰道経由の無理な代替交通路確保で大幅に力をそ
ぎ取られた京都政府には、抗議の声明を発する以外のまともなことは出来てな
い。
で、京都政府の手から滑り落ちた、関東以北。残った最大の都市、仙台に、
東北各県庁と北海道庁の役人を集めて日本国東北・北海道統治暫定機構なるも
のが出来て、こっちはこっち、そっちはそっちという方式で何とかやっている。
これもいつ破綻するか判らない状態だ。
で、俺達の仕事は、この東北・北海道暫定統治機構の領土と、関西中央を結
ぶフェリーを使った非合法な運送屋だ。いかに危なっかしい商売かよく判るだ
ろう?
どういうコネを使ったのか俺には教えてくれないのだが、、北山がこのフェ
リーの搭乗免許を手に入れてきたときにはまだ北陸道経由という手が残ってい
た。でも、もうこれしかない。
ふぅ。英語が嫌いじゃなけりゃ、アメリカにでも行った方がましかもしれな
い。そこで、韓国系の振りでもすれば十分に暮らしていけるだろう。日本人だ
と判った途端にリンチされかねないけど。
少なくとも、新潟に居座ったロシア軍だけはなんとかならないんだろうかね。
まぁ、無理も言えねぇが。
国連は、北朝鮮南進の対応で手一杯らしいし。現実として、崩壊しつつある
韓国を救う方が優先だと思っているようだ。
それというのも……原因を言い出せば、本当にきりがない。何せ、陸上自衛
隊は日本各地に災害派遣されていて、ろくな抵抗も出来なかった(それどころ
か避難民の保護にすら失敗していたらしい)し、在日米軍はといえば、横須賀
ごと潰滅した空母部隊の保障金として日本が支出する金が足りないからと言う
ことで、ごねてストライキしている真っ最中だったらしいし。要するに、旧日
本(悲しいがこう言い切ってしまおう)が大枚はたいて保持していた安全保障
システムなど、屁の突っ張りにもならなかったという事だ。それなりに、各所
に言い訳はあるんだろうけれども。
でも俺が思うに、これは外交の失敗だ。だいたいにおいて、日本は敵を作り
すぎたのだ。あの頃の政治家共の曰く。「冷戦が終結した」? 「もう戦争は
ない」? 「これからは経済戦争の時代だ」? 「わが国は真の経済大国とし
ての責任を!」? はぁ! 実に愚かなこった。経済戦争にも同盟国は必要で
はないのかい? 一番愚かなことは、札ビラで頬を叩くようなやり方で湾岸戦
争を乗り切り、同じ手で北方領土を回復し、各国の最良のものを買い漁り……
…全ては、金、金、金。そういう態度だ。そして、金持ちの家が火事になった
とき、口で可哀想にと言うだけで村人は誰も見向きもしない。当然だ。
窓の外を見る。濡れそぼった窓。生暖かい窓。灰色の窓。海面付近まで覆い
つくした雲と雨。地上のことも知らずに相変わらず映像を送ってくる「ひまわ
り」の衛星写真。仙台の情報屋で入手したそれには、雲一色に覆われた日本列
島が映っていた。そうか、合法的なメディアからまともな天気予報がなくなっ
てから、もう二ヶ月もたっちまったのか。
「もうだれも非常事態だなんて言わなくなったよな」
うざったそうに床に寝そべった恰好で、北山が呟く。
「人間、判りきっていることは言わないもんだ」
軽く言葉を返す。
「ま、それもそうか」
再びの沈黙。
相変わらず、窓を叩いているのは雨ばかり。
「あーっ、ろくでもねぇ!」
先に沈黙に耐えられなくなった北山が、叫ぶ。叫ぶことによって、より沈黙
は深まる。
しかしまぁ、気持ちは俺も大して変わらない。
結構ぼろい商売だった運び屋も、そろそろ廃業時になっているかもしれない。
このフェリーの運賃もだんだん莫迦にならなくなってきている。俺達のような
トラック一台でやっている零細は、復興してきた大手物流管理会社にはかなわ
ないだろうし。
唐突に船が揺れる。揺れ方が変化する。少し、加速度がかかっている。
そろそろ、本気で転職でも考えてみるべきかもしれない。こいつの顔も見飽
きちまったし。
少し、立ち上がって伸びをする。
反対の舷側に面した窓の方からざわめきが広がる。
「どうしたんだろ?」
「知るか!」
北山は、俺が考え込んでいる内に、何処から引っぱり出したのか酒に手を出
している。
あ、クソッ。こいつ、貴重な日本酒飲んでやがる。
俺は、勝手にやり始めた北山を無視して、一旦通路に降りて靴を履き、野次
馬するべくざわめきの方に向かった。
ざわめきの中心たる窓から外を見上げて、思わず口をついて出ている言葉。
「なんてこったい」
俺達の乗っているフェリーの脇を、巨大な影がゆっくりと追い越していく。
あの平べったい艦型は、たぶん空母だ。そして、その空母の舷側からは、煙が
立ち登っている。
「あれは、フランスの国旗じゃないか?」
誰かが、呆然としたようにそう呟いているのが聞こえたような気がした。
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