小説018『月光』


目次



小説018『月光』


登場人物

 岡崎 鞍馬 (おかざき・くらま)	: 
    :生まれながらに無敵の肉体を持つ小学生。終末の住人。



昼間


 いつまでも晴れた日が続く。
 身体中から、いや、自分というものから全ての水分が蒸発してしまいそうで。
 そのくせ湿度は嫌と言うほど高く……
 
 ……まるで世界が、今という時間に動いている者の存在を苛むかのように。



夕方


 暑い昼日中に体を動かすことには慣れているが、それでも泳ぐような熱気と
湿気の中を動くことに努力するよりは休む場所を探すことを、鞍馬は選んだ。

 緑に囲まれた谷間の、小さなバス停。その立地柄、都会のバス停には無い小
さな待合室が、小さな地蔵尊に見守られながら、バス停の標識に寄り添うよう
に佇んでいる。鞍馬はそこを今晩の宿と定めた。
 細いザイルを張り、上着やポンチョをかけて日差しを防ぐ。簡単なコンロを
組み立て、コッヘルと固形燃料を取り出し、使い回しているペットボトルから
途中の町で汲んできた水を注いで、ライターで火をつける。ざんざかざん、と
ナイフでキャベツを刻む。今日の夕飯はキャベツラーメンらしい。……まあ、
そんなものだろう。

 水が沸騰し調理(?)が完了するまでは時間が空く。
 地図で、ここまでのルートと明日行く予定の町までのルートを確認し、改め
て実感する。まだ太陽は沈んでいないが、もうバスは来る様子はない。田舎の
山間を抜ける道の、集落と集落の間に、エアポケットのようにぽかんと認知さ
れた空間。
 沢から流れてくる風が平地より涼しく、心地よさを感じながらも、鞍馬は長
袖のシャツを取り出しておいた。夜は久々にシュラフが要るかも知れない。

 そう考えているうちに、待合室の中から暖かい湯気が立ち上ってくる。夕日
が山際に隠れる頃には、質素だが何よりも美味しい夕食が出来上がった。

「いただきます」



薄暮


「おや……うまそうな匂いがすると思ったら」

 不意に飛び込んだ人の声に、鞍馬は待合室の外に首を出した。

「こんなところに子供がいるとはのぉ」

 目の前にいたのは、一人の老人だった。
 一見して外出着とわかる身なりに、杖を突きながらバス停に歩み寄ってくる。

「あ……すみませんっ」

 鞍馬は手早くポンチョを引き下ろし、待合室の入り口を空けた。老人はゆっ
くりとした足取りで入ってきて、鞍馬の向かい側に腰掛けた。
 その間に鞍馬は、まだ弱い火を放つコンロを危険のない位置にずらし、自分
の服を乾いたものから丸めて尻の下に敷いて、改めて老人と向き合う位置に就
いた。
 老人の、細められたしわくちゃの目元は、興味津々の様子で鞍馬を見ながら
微笑みを浮かべている。

「こんな処で野宿かね?」
「はい」
「一人じゃろう?」
「はい」
「そりゃ大儀じゃのう」

 老人は意外に張りのある声で笑った。

「そんなもんだけ食っておったら、大変じゃろう」
「……毎日ラーメンばかり食べてるわけじゃないから」
「ほぅ?」
「この山を抜けたいから、今日はたまたま自炊なんです」
「どこへ往くつもりじゃね?」
「長野です」
「もうすぐじゃのぅ……しかし、歩いていくのか?」
「はい」
「それは……」

 またも老人は笑う。高くも大きくもないが、芯の通った笑い声。

「人の足では、すぐというわけにはいかんのぅ」
「……大丈夫、です」
「そうか、大丈夫かね」

 老人の目は、鞍馬に話しかけるごとに光を帯びていく。鞍馬を話し相手とし
て気に入ったのだろうか。鞍馬は、老人に相槌を打たなければ失礼だと思って、
なかなか食が進まない。

「……おじいさんは」
「うむ?」

 話のイニシアチブを引き戻して、一口ラーメンをすする。

「……おじいさんは、今からどこへ行くんですか?」
「儂かね?」

 ふむ、と言う表情で、老人はじっと鞍馬を見つめながらあるかないかの顎ひ
げを撫でた。

「仲間内の寄り合いがあるのじゃよ。それで、バスに乗りに来たのじゃ」
「……バス?」

 鞍馬は怪訝そうに首を傾げた。
 小さな待合室の中の、鞍馬の位置からは、停留所の標識にかかっている時刻
表は見えない。しかし、もうバスの便はなかったような覚えがあるが……?
 鞍馬の疑問に先回りするように、老人はゆっくりと言葉を継いだ。

「ここまで儂を迎えに来てくれるのじゃよ。そんな感じであちこちを回ってな。
それで、帰りも送ってくれるのじゃ。だからこのバス停は、重宝しておるよ」
「……そうなんだ」

 今度は鞍馬は、老人の言う内容に本気で聞き入って、食べることをつい忘れ
てしまっていた。彼はいい加減に聞き流すなどということをしない質だから、
相手の話す内容をちゃんと反芻して、想像しようと試みる。老人の言ったこと
は鞍馬にとっては意外だったから、彼の頭の中では老人の話題への興味が頭を
もたげていた。
 その様子を、老人はじっと眺めていた。

「……」

 一瞬の間の後、不意に老人は相好を崩した。
 ただの微笑みでも、興味でも、行きずりの話し相手でもなく。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 破顔一笑。
 鞍馬はきょとんとして老人の豹変ぶりを眺めた。

「食べなさい、冷めてしまう」
「……はい」



夜闇


 ほどなくきれいに食べ終わった鞍馬は、わずかに水を注いで器を洗い、その
水も飲み干した。

「ごちそうさま」
「ええ子じゃの」

 老人は素直に鞍馬の行儀をほめた。
 それには応えず(と言うより応える言葉がわからなくて)、鞍馬はとっぷり
と暮れた外の様子をうかがった。

「……バス、来ませんね」

 鞍馬は、まだ熱の残る足元のコンロに手をかざした。
 山の夜はもうかなり涼しい。

「そんなもんじゃ」
「……そうですね」
「坊やは……」

 今度は老人の方が話しかけてきた。

「どこから来たんじゃね?」
「東京です」
「……遠いところからよく来たのぅ」
「そんなこともないです。……準備の方が大変だった」
「そうか、そんなもんかね」

 はにかむような鞍馬の笑いに、老人が合わせて笑う。

「その割りには、坊やはあまり都会の匂いがせんの」
「都会の……匂い?」
「そう。何気ない行いとか、行儀作法とか、身の処し方とか、知らず知らずに
纏っていて周囲に漂わせる空気。それが"匂い"のようにわかるのじゃよ」
「……しませんか? そうかなぁ……」
「実際には坊やは、山にいる時間の方が意外と長いのではないかね?」
「……そうかも知れない」
「珍しい子じゃ。山にいるのは好きかね?」
「……好きです。山っていうか……表を走り回ることが好きです。風を切って
駆け回ることとか……好きです」
「ふむ」

 老人は一旦言葉を切った。

「それだけの力を、坊やは持っておるのじゃな」

 鞍馬はじっと老人を見つめた。この老人は、一体何に気付いたのだろう?
 しかし老人は、愛おしむような、懐かしむような、そんな表情で、鞍馬の視
線をやんわりと受け止めた。

「坊やのような子を、儂は一人知っておる」

 老人はいささか唐突に言葉を継いだ。

「坊やによく似た、可愛らしく、大人しくて、優しい……そして力を秘めた娘
じゃった。名前を……まなき、と言った」
「"まなき"……?」

 鞍馬は目を見張った。

「……もしかして……ぼくのお母さんを、知ってるの?」

 張りつめた沈黙。
 ややあって、老人は目を閉じ、そして何度も頷いた。

「……そうか……坊やは、"まなき"の息子じゃったか……」
「おじいさん?」
「……そうじゃ…確かにもう随分昔のことじゃからのぅ……それに、"まなき"
の子なら、坊やの中に"まなき"の力を感じたのも道理じゃて……」
「おじいさん! お母さんのことを知ってるの?!」

 鞍馬は思わず立ち上がっていた。
 その時、谷の向こうから、低いクラクションの響きが耳に届いた。

「来たか……」
「おじいさん!」
「昔のことじゃて。それに……坊やがこうして生まれたのならば、"まなき"に
ついて改めて儂から話すことは、何もないのじゃ」
「……?!」
「坊や自身が、それだけの"力"を、持っておるのじゃから」

 低い音を轟かせて、バス停にバスが止まった。老人は、既に外に出てバスに
乗ろうとしている。

「おじいさん! どう言うことなの?! ねぇ!」

 乗り込む前に、老人は振り返った。
 ごおっ、と一陣の風が巻き上がる。鞍馬が思わず顔をかばった瞬間に、老人
は既にバスの中に乗り込んでいた。

「本当のことを言えば、初めは、坊やを食ってしまおうかと思っておったのじゃ
よ。しかし、"まなき"の息子なら、話は別じゃ」

 ほう、"まなき"の息子? と、いくつかの顔がバスの中から鞍馬のことを振
り返る。鞍馬は彼らの貌を見て目を疑った。そこにいる年老いた紳士淑女達は、
よく見ればいずれも、ねめつけるような肉食獣の眼を持った、狗やら狐やら猫
やらの獣たちであった。
 そして、今しがたまで鞍馬と話をしていた老人も、耳元まで口が裂け、老い
てなお精悍な顔立ちをした山狗へと姿を変えていた。

「教えてよ! お母さんのことを知ってるんでしょ?!」
「儂らに訊くよりも、もっとふさわしい相手がおるはずじゃ。
 "まなき"がこの世を去るときに傍におったのは誰じゃ? "まなき"が坊やを
この世に残したのは、誰のためじゃ? ……その者に訊いてみるがええ。"ま
なき"が……そして、坊やが何者なのかを、のぅ」
「…………え……」

 鞍馬は、老人が言うことを一瞬理解できなかった。

「……お父さんに?」

 バスが唸りをあげた。今こうして聞くと、クラクションに聞こえたそれは、
大きく恐ろしげな獣の鳴き声に他ならなかった。バスは猫属のうねるような身
のこなしと共に滑り出し、瞬く間にスピードを上げた。
 車窓からは、老人が鞍馬のことを見つめていた。

「待って!」

 鞍馬は、その老人にすがるように、バスを追って走り出した。
 しかし、バスとの距離は見る見るうちに開いていく。

「教えてよ! 何があったの? なぜお母さんのことを知ってるの? 知って
るんでしょ?! お母さんはどんな人だったの?! 答えてよ!
 ……ねぇ!!」

 しかし鞍馬の叫びは、ついに届くことはなかった。



月光


「……はっ」

 鞍馬は、身体を撫でる冷たい空気に目を覚ました。
 待合室の中で、いつの間にか寝入っていたらしい。既に熱を失ったコンロが、
燃え尽きた固形燃料のつんとした化学臭を漂わせている。

「……そんなっ!」

 慌てて鞍馬は外へ駆け出した。
 街灯すらない道を、皓々と降り注ぐ月の光だけが照らしている。物陰は深い
闇に沈み、モノクロームに転じた世界。それは何よりも透き通りつつ、逆に一
層現実感を失わせる。
 辺りを見回してみる。あの老人、そして獣たちを乗せたバスがいた形跡は、
待合室にも、外の道にも、微塵も残っていなかった。

「……そんな……」

 途方に暮れた鞍馬の目に、ふと道ばたの地蔵尊の姿が映った。

「お地蔵さん……」

 鞍馬はかがみこんで地蔵尊に話しかけた。

「お地蔵さんは……見てたんでしょ?
 あのおじいさんは、本当にいたんでしょう? お母さんのことを、知ってた
んでしょう? ぼくの……」

 鞍馬の声が震えている。

「ぼくの知りたいことをみんな知っているのに……行ってしまった、のでしょ
う? なぜなのかなぁ……
 ……お母さんは、どんな人だったの? 知りたいよ……ぼくだって……お父
さんに会いたい……会えるなら……話を……会いたいから……それなのに……」

 地蔵は何も語らずに、月の光に照らされながら、ただ鞍馬の声を聞いていた。

「……ねぇ……答えてよ……」

 地蔵には、答えられるはずもない。

「……お父さん……」

 月の光がしんしんと降り注ぎ、鞍馬を包み込む。強く生きられるわけではな
い、けなげすぎるこの少年を、優しく支えるかのように。

 肩を震わせながら、その夜鞍馬は、そうしていつまでもうずくまっていた。


 終



関連人物

 岡崎高雄(おかざき・たかお)	: 
    :鞍馬の父。
    :鞍馬が生まれ妻を失ったときから程なくして、失踪する。
 岡崎愛姫(おかざき・まなき)	: 
    :鞍馬の母。鞍馬をこの世に産み落とした際、命を失う。



解説

 何かを捜すための旅の半ばで、鞍馬が自分の両親のことを知る人外の存在に
出会う話です。



時系列

 1999(2nd)年7月26日の夕刻から夜にかけて。



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