五月晴れというのがよく似合う五月のある日。
新入生や新入社員が常連となるのに大切なこの期間に、喫茶店
「月影」は店を閉じていた。
年の割にはしっかりとした少年に見送られながら、店の二階から新宿の町へと出かけてゆく。
口に出して、呟く。儀式めいた、呟き。
左手をそっと添えていた右の二の腕が、ゆっくりと力を持つ。
力無く垂れ下がっていた手首がほんのわずかだけ重力に逆らって反り返る。指の関節がわずかに角度を取る。それだけで、手は命を吹き返す。
そして、世界が凍り付く。朱理の右腕が生き返るその代償の様に。
腕は、ほんの僅かだけ、微光を帯びて。
凍り付いたまま、落ちない夕日。
凍り付いたまま、動かない風景。
さっきまで力を持っていなかった掌に握られた筆が、キャンバスに張られた画布に色素を乗せていく。
窓の外の風景と微妙に交錯しながら、ほぼ完成に近いと見える絵はその色合いを鮮やかに一筆ごとに変化させていく。
完全な沈黙の中、朱理の腕と、絵の中の風景だけが動き続ける。
どれほどの時間がたったのだろう?
どれほどの。いや、時を止める結界の中では時間はさして意味を持たない。
誰かが、来ていた。
今日は、見つけるつもりで来ている。いつもよりも集中しているため、見つけるのも反応も早い。
結界を先ほど作られた物と隣り合わせになるように張る。重ねて作成できないことは、既に竜也と実験済みである。
結界のそばまで行って、人目に付かないように結界内に進入するつもりだった。
すばやく結界を解き、一歩前へ。同時に結界の侵入を試みる。集中的に訓練したのだ。戦闘用や、あらかじめ結界術者用に強めに張っていない限り、簡単に入り込める。
そのまま入ろうとして考え直し、ノックをする。
しばらくの間。内側で、僅かな反応。
なるべく友好的に聞こえる様な声音、態度。
そして、ゆっくりとドアを開ける。
油絵の具に随所が汚れたやや大きめのスモッグ。
キャンバス。油絵の具の匂い。右腕に握られたままの絵筆。
無言のまま、まっすぐ見つめ返す、強い視線。
そして、頬に隠しきれない緊張感。
緊張感を読みとる。
扉を開けた位置から一歩も踏み出さないようにしたまま、一礼。
じれるような、しばらくの無言の後。朱理の方から尋ね返す。
その応えは、予想の他にあったのだろう。その意味を問う疑問符。
その問いに、朱理は画布と直人とを見比べる。
まだ、納得の行く出来にはなっていない。まだ、今日の作業をお仕舞いと言ってしまえるまでにはなっていない。
背もたれのない、丸椅子を指し示す。
直人はそれに腰掛けて、朱理が再びキャンバスに向かう様子をじっと観察する。
しばしの静寂。結界内には、朱理の筆を走らす音だけが聞こえる。
油の匂いだけが、ゆっくりと満ちていく。
永い時間かけて、何かが彼女を満足させたのだろう。
朱理は筆を油を入れた容器の中に、静かに沈めた。
背もたれのない椅子。それを回転させる。直人の方に向きなおる。
名刺を渡す。朱理は、左手でそれを受け取る。僅かに緊張が走り、消える。
朱理が、名刺の内容を読みとり終えるのを待ち、直人は話を再開する。
朱理は口を閉ざしたまま、その問いに答える。
朱理が同意の意味の沈黙を返す。
朱理のその問いに、直人は答える事が出来ない。
そこで、一旦、直人は言葉を切る。朱理は少し大きく瞬き、微妙に小首を傾げる。
彼女の表情を読み取るかのように、真っ直ぐに見つめる直人。
彼の言葉の意味を読もうと、目をそらさずに見つめ返す朱理。
微妙に濁された語尾。
僅かに強い語気。僅かに細められる視線。
そういうと、にこりと人懐っこい笑みを浮かべる。不安を抱かせないための冗談。その意図までも、通じる。
笑みを作っている。会話での後ろにあるもので、応える。
名刺の裏側を見る、ややデフォルメされた地図だが充分に判る。
僅かに体の向きを変えると、まだ沈まない夕陽を背に受けて、朱理の表情が見えなくなる。
ビルを出た所で結界を解き、合流する。結界内で沈む寸前だった夕日は、既に沈みきってしまっている。
月影までは歩いて十数分の距離だ。
特に、何もしゃべらずに、直人の背中を見ながらついて歩く。微妙な距離が、注意深く置かれている。朱理の左肩にかかる、画材の重み。
突然、雑踏の中で直人は足を止めた。
直人は、朱理の視線に答えずに、じっと前を睨み付けている。
一瞬吹き出した殺気、そして、それが抑えられて。
それから、ようやく口を開く。
異常。何かの異常事態だということは、朱理にも伝わっている。
直人の口元には微笑が浮かんでいたが、目の奥には緊張感が張りつめている。
会話の最中も、進行方向の一点から目を離す事はない。
視線の先には、信号待ちをしている一般人達。
そういって、答えもまたずに歩を進めてしまう。見ていた方向とは違う、路地に向かって。
ざわっ。
黒い透明な壁が、急速に自分に迫ってくる感覚。そのまま自分にぶつかる事を予想し、思わず身を竦めるが衝撃は何も無くすり抜ける。
朱理が先ほどまで張っていたような、薄く弱いものではない。完全に外界との接触を断つかのような強力な結界が張られたのだ。何気なく歩いているだけでも感じるような強烈な存在感まで備わっている。
交差点の人々が信号の変化にしたがっていっせいに動き出す。動いていく群れの中から、動かない事で離れる青年が一人。黒いジーンズ生地のズボンとジャケット、下には黒いシャツを着込んでいる。
あたりを見回し、はめていた眼鏡を懐に仕舞いながら
にやり……
と笑い……。消えた。
結界内に侵入すると、外界からその姿は見えなくなってしまう。瞬間移動というよりは、今張られた結界に入り込んだと考えた方が普通である。
呟く。今まで知らなかった、事。
終末の住人、災厄、そして………
唇を、僅かに噛む。
歩道で立ち止まったままの朱理の脇を、新宿の雑踏が通り過ぎていく。
岡崎鞍馬は、遠くの……常人にはそそり立つ堅いビルの群れに阻まれて見えないはずの……新宿の町並みを凝視していた。
そこには、「壁」が出現していた。
他の者には感じられないらしい……月島直人が「結界」と呼ぶ……その現象を、鞍馬は「壁」と呼んだ。
それは彼の中で、彼と同じバンダナを身につけたあの人の記憶と結び付く。
彼にとっては、嫌な思い出。
あの人に近付くために、……
思ったときには、既に足はアスファルトの路面を蹴り、彼は夢中で走り出していた。
歩道を走り、路地を過ぎる。普通の交通が利用しない東京中の「道」を、彼は熟知していた。彼に並行して走る者がいたなら、彼が短距離走もかくやと言う速度でしかも何分も走り続けるのを見ただろう。しかし道なき道を走り抜ける彼に追従できる者はその場にはいなかった。
人の目の影から影へと渡りながら、塀を踏み越え、多少の段差も飛び越え、ついに彼の視野に新宿の町並みが飛び込んできた。
「壁」は、通りの向こうに、鞍馬の視野一杯を覆うように存在していた。
のしかかるような圧迫感が、汗腺から逆流してきそうな感じすら覚える。
嫌な思い出が、いちいちダブる。
「壁」に阻まれた思い出。目の前のものと、大きさは違うけれど。
そろそろと近付く。
そこに「壁」がある、手応えを感じる。見えないが、確かに感じる。
「壁」の位置を頭に叩き込み、呼吸を整え、一転彼は「壁」に向かって突進した。「壁」の存在が眼前に迫る。
しかし彼が「壁」にぶつかることはなかった。
抵抗すら感じることなく、彼は「壁」のあった場所を通り過ぎた。
彼の耳を打つ周囲の雑踏に途切れは無い。すれ違う会社員やOLが怪訝そうな顔で見ながら通り過ぎてゆく。世界は何も変わった様子はなかった。
「壁」に踏み込むことはできなかったのだ。
もどかしさと失望が、彼を包んだ。
二人が相対したのは、これで2度目となる。1度目は日向が月影を爆破した事件のとき。直人は、この時に父を失い、終末の住人となったのだ。
双方が、同時に理解した。左目の異質な色……直人は銀、日向は金。二人とも自分の瞳ではなく、カラーコンタクトである。彼ら「対」が持つ鍵は全く同じ物なのだ。
日向の目は、狂気に彩られている。人を殺す事を喜ぶ彼の嗜好を、終末の狩人の使命が促進、変質させているようだ。
終末の狩人とは、直人たち終末の住人が生まれた事の反動で生まれた存在で、終末の住人と同様に「結界」を張り、「鍵」を持つ。しかし、終末の住人とは違い、その存在目的はただ一つ。「対となる終末の住人を消滅させる事」のみなのである。
そして、懐からペンライトのようなものを取り出した日向は、その上部についているボタンを押した。
桜居珠希はこの日、学校帰りに友人達と新宿で遊び回っていた。マルイで服を見て、タワレコでCDを買ってというお決まりのコース、そしていざ帰ろうというときの出来事だった。
友人達と別れ、裏通りから結界内に侵入する珠希。一瞬他人の結界に入るとき特有の違和感に吐き気を覚えるが、次の瞬間それすらも吹き飛ばす空気の振動に襲われた。
バッグから子供の生首を取り出す珠希。どういう仕組みなのか血は出ておらず、それどころかその生首と会話している。そして珠希がその首を粗大ゴミの山におくと、あたかも一つの生き物であるかのように巨大なゴミ人間が立ち上がった。
直人の後方にそびえるビルの最上階付近が爆発する。ビルは1フロア完全に吹き飛び、破片は道路に居た直人に降り注ぐ。その人間が作り出した破片一つ一つが、重力という自然の法則に助けられ必殺の破壊力となる。
かろうじて避ける直人。というより、彼の身体を狙って落ちてくるわけではなく、破片は道路の中央、直人と日向の中間位置に集中して落ちている。
日向の声から、彼が走り去って行くのが分かる。姿を隠されたのだ。
単純だが、おそらく真理であろう。彼が結界の外でスイッチを押せば、今度は実際のビルが崩れ、人の居る道路に破片が降り注ぐ。
電波的な起爆装置の場合、押した信号を出しつづけている可能性もある。その場合には、結界内から出た瞬間に爆発してしまう。
立ち込める土煙の中から、片足を引きずりながら姿をあらわす直人。傍らの街路樹に腰を下ろす。無数の破片が直人を狙うことを意図していなくても、すべて避けきれるものではない。片足に乗っていた瓦礫は崩壊させて抜け出したが、右足は折れていて使い物にはならない。
その時、直人の頭上、壊れた街頭の下に一人の少女が現れる。
油断である。奇襲を受けたにもかかわらず、その側でへたり込んで動けないでいる。今の声の主が、直人を殺そうと思えば簡単に殺せただろう。
見上げると、町中で会えば男の半分は振り返って注目するであろう容貌を持った女性である。制服を着ていることから察するに女子高生であろう。
その女子高生、珠希はそう呟くと、空に向かって合図をした。するとどこからか身の丈3mはありそうな異形の怪物が降ってくる。よく見るとテレビやギターなどの粗大ゴミの山の上に、子供の頭が取って付けたようにくっついている。
彼女が狩人であるという可能性は否定できないが、この状況で逆らうのはまずいと判断した直人は、新宿に仕掛けられた爆弾の話をし始めた。
珠希はそう言って笑うと、粗大ゴミの化け物と共に爆発で崩壊したビルへと入っていった。
新宿という街が苦手である、とは、風音はあまり思わない。
人こそ多いが、それはまとめて風のようなもので、こちらに関わるものではない。
……大概は。
もうすっかり暗くなった道を、しかし人の流れは絶えることなく動いている。
ざらざらと、人の数だけ未来が砕ける。
砕けた未来を受け流しながら歩いていた風音は、ふと足を止めた。
どこか見慣れた、けれども異質な青銀色の光沢を持つ壁が、自分の目の前にある。
目を細めると、青銀色の光沢がすう、と流れるように消え、壁が透き通る。
二重写しの、奇妙な風景。
壁越しに流れ来る、近未来。
がらがらと砕ける壁。
それが静かに天から降ってくる。
無音。
それが降り注ぐ……先に。
女性。すらりと背の高い、厳しい視線の。
微かに唇を噛み締めて、視線を据えている。
からからと、彼女より来る未来。
砕ける壁が、確かに彼女の上に…………
思わず手を伸ばしたその気配に、彼女が振り向く。
切り揃えられた髪が、鋭い弧を描く。右腕だけが、妙に力を持たない。
怪訝そうな、そしてどこか突き放すような目と、語調。
風音は口をつぐんだ。
ズジョウニ、ビルノカベノハヘンガオチテキマス
ハナビラミタイニ……
ぽつり、と呟くと、彼女からやって来た破片の一つがすう、と形を取る。
手のひらを並べたくらいの大きさの、ごつごつとしたそれは、しかしひらひらと舞うように風音の手元に落ちてきた。
莫迦な、と言いかけて朱理は口をつぐむ。目の前の小柄な女の言葉を信じたわけではない。
しかし流石に、初対面の人間に向かって「莫迦な」とは言えない。
ふいと、風音が視線を泳がせた。
からからと、青銀色の壁より流れる未来の破片。
倒れる男。それに向き合う男。視線。月の色。太陽の色。
奇妙な方向を向く、足。そして……女子高生?
そして、食い込むように深く刻まれる文字。
カレラハフカクカカワルモノ。
寸前の未来。
五感のうち二つを支配する、爆発の衝撃。しかし触覚には一切伝わらぬ……
破片の幻は、彼女達の立つ路地、一面に降り注いだ。
反射的に避けてから、二人は顔を見合わせた。
埒があかない。
く、と一度唇を噛むと、朱理は、砕けかつ砕けていないビルに向き直った。
つう、と、左手が右の肩へ伸びる。左手に持ち上げられて、右の手が動く。
右の手首が重力に従って、だらりと垂れ下がる。右手のどの関節一つとっても、力がわずかにでも入っているようには見えない。
ふう、と、その右手が未来からの残像を描く。
残像は風音の視界の中で、静かに情景へと化してゆく。
どこかの店のカウンター。朱理が、その右腕を外して見せている情景。
とてもよくできているけれども、義手。それを先に知っている。
朱理が、口の中で何かを呟く。
その義手の手首が不意に力を取り戻す。
まるで何かをなぞるように、現実で無いものに向かって指先が伸びる。
伸びた腕が、すう、と、めり込んで行く。
ほんの数瞬後、朱理の姿はこちら側から消えうせている。
ひどく、躊躇いがあった。
それでも、彼女一人を行かせるわけにはいかない、と、ふと思った。
たとえ変えようのない未来であっても。
すい、と、躊躇いがちに手を伸ばす。ぴしん、と弾けるような感触に一旦手を引っ込めかけたがそのまま突き入れる。後は抵抗らしいものも感じないまま、するり、と、入りこむ。
未来が流れ来る。そのうちの一つに風音は手を伸ばした。ひしゃげて見る影もない街灯が何者かに追い立てられるように走って来る。
その一言で、それは「馬」へと変じる。よじくれた下半分は四足と胴体へ、そして長すぎる首へと続いて。
月の目の人は、なんとなくやたらと大きな印象があった。
とん、と、降り立つ。世界の位相が、ふいと切り替わる。
右腕は、力を持つ。いつもの自分の結界の中と同じように。
自分のものではない結界でも、右腕は使えるらしい。
無人の新宿。人の気配は、いつもより、ずっと遠い。
多数の人工照明が点いてはいても。人が居ないと、この街はとても暗い。
そして。振り返る。
そこに佇んでいるのは、さっきの女性。そして。
ひねまがった街灯。
新宿の街並みの中では見かけたことのあるようなないような。その元の形を無理に想像すれば、だけれども。
でも、裂けてねじ曲がって………まるで四つ足の。
馬のような、鼻息。馬のような形。街灯でありながら、馬である、オブジェ。そして、風音はその街灯生命体の頸を軽くたたく。
見つめる朱理に、彼女は当たり前のように告げる。
それが、この女性の力なのならば。問題はない、筈だ。
こういう事にも、たぶん慣れなくちゃ、いけない。
何が起こってしまっているのかを知るためには。
そう尋ねてから、その女性の名前をまだ尋ねていないことに気づく
そう応えられてから、自分の名前をまだ名乗っていなかったことに気づく。
振り返って、月島のいるはずの場所へと向きなおりながら、尋ねている。
後ろについて歩きながら、風音が応える。
二人の足音はさして響きはしない。ただ、「馬」の足音だけ。
途方に暮れる。体術を訓練しなかった直人は、身のこなしが通常の人間とあまり変わらない。足の骨折をおして動けるほど場数を踏んでいるわけではないのだ。
自分の骨を「物体」とし、体内で「再生」させる。周囲の組織を無視して再生される可能性があるため、どのような障害が出るか予想もつかない。
とっとっとっと……。軽い、足音。
誰だ?
動けないまま、耳を澄ます。日向の靴音とは違う。……女性?
そして、一人でもない。
朱理が走り寄ってくる。
すぐ後方から女性と……ひどく捻じ曲がったオブジェクトのようなもの。
言い訳にもならない言い訳。それを察知し、直人の顔に微笑が浮かぶ。自分一人で全てを背負おうと張っていた気が解けるのを感じた。同時に、新たな強さが彼の中に生まれる。
もう一人の女性。住人の可能性の高い人物のリストの、筆頭近くに記載されていた人物。次に接触するつもりで、下調べぐらいは行っていたので、記憶に残っている。
彼女たちは、守らなければならない。
無言で首を傾げる。
過去の方向に、憶えはない。
朱理はわずかに瞳を細める。
つい、と。しゃがみ込む。
朱理の動く筈のない義手の掌が、柔らかく直人の折れた右足に触れる。痛みよりも、むしろ、こそばゆさ。
何かに集中するかのように。朱理のまぶたが閉じる。
右腕に宿っていた微光が、掌に向けて集まっていく。血の通わない義手に、本来は宿るべくもない生命の光。
その光がゆっくりと右足から、身体全体へと暖かく広がっていく。
脂汗の浮き出していた直人の顔に、血の気と、余裕が戻る。
朱理が、痛みの消えた右の足を持つ。骨のきしむ音。骨以外に損傷を与えないように。ゆっくりと奇妙に歪んだ足を掴んで、正常の位置関係へとに戻して行く。
もう一つの力。物理力。
断端がかみ合い、正常な位置に戻った骨が物理的に操作されて結合する。
疑問を含めた、了解の答え。光が、さっきまで折れていた骨の周りを重点的に癒やしていく。
そういうと、立ち上がって足の具合を確かめる。異常は特には見られない。
むしろ、逆に調子がいいぐらいだ。
そこで、あたりを見回す。人気のない結界内で、うごく者は見当たらない。
小さく呟くと、くい、と二人の腕を掴んで引っ張る。
カツンッ……コロコロ……
振り向いた直人と朱理の目に、どこからか投げられて転がってくる手榴弾が目に入った。
一睨みしただけで、手榴弾は鉄等の砂と化し、手榴弾ではなくなる。
無言で辺りを見、やがて指で方角を示す。
この辺に住んでいるだけあって、それで十分通じたらしい。
爆音。
爆音と一緒に、未来。
崩れ落ちた壁の間から、ゆっくりと起き上がる……少年?
その顔に見覚えがある。
近未来。ともすれば崩れかける未来を、そろそろと辿ってゆく。
視野の中で時間は逆戻りした。より遠い未来から、より近い未来へと。
太陽の目の男。月の目の男。
かくん、と突き飛ばされたように、未来から今へ。
黙ったまま、風音は走り出す。後ろから奇怪な馬が従順についてくる。
仕方なし、朱理も走り出す。
太陽の目の男が、捕らえている少年を爆破する……変わらぬ未来。
でも、少年は生きている。死なない……これもまた変わらぬ未来。
故に…………脅しは全て無効である。
…………と…………
多分、信じてもらえはしないだろう。
故に、時を読む。
恐らく機会は一瞬。少年を爆破するその際に、この馬は生じている。
その一瞬、未来が現在にすりかわった瞬間に、馬は消える。
一度だけ頭を深く曲げて、そのまま馬は走り出した。
粗大ゴミの化け物と化した由紀夫は、珠希の指示で瓦礫の山をどかしながらぼやいた。珠希は爆発の中心部を結界の中にいる内に突き止めた方が効率が、よいと判断したのだ。そして爆発の中心部と思われる一室に二人は辿り着いた。
そして由紀夫の首をバッグに詰めると珠希は結界を抜けていった。
桜居珠希は怒っていた、結界から抜ける際にひどい頭痛に襲われたのだ。結界の外に出てみるとそこは今は誰も使っていない貸事務所のようであったが、なかなか目的の爆弾も見つからない。
ぐしゃ。由紀夫の首の入ったバッグが壁に叩き付けられる。
バッグを軽く叩き付けただけで壁の表面がボロボロと崩れたようであった。よく見ると周囲の壁に比べて若干色も違う。さっと見て回るとビルの柱の要所要所にこのような処理が施されているようであった。珠希はバッグから折り畳み式の剃刀を出し、畳んだままで壁に施された張りぼてを落とす。
壁には案の定爆弾とおぼしきモノが埋め込まれていた。珠希は由紀夫の首を取り出し、爆弾の上にそっと置く。
…………
能力の使いすぎで強い頭痛を覚えた珠希は、朦朧としながらも爆弾を処理し終えたビルから出る。いつもと変わらない大通り、仕事帰りのサラリーマンが足早に前を通り過ぎ、酔った学生のグループが次の店を探してうろうろしている。誰もがまさか目の前のビルに爆弾が仕掛けられていたなどとは思いもしないだろう。
そして、先程の青年の倒れていたあたりを見ると、酔った若い男が同僚と思われる男に支えられ、胃の中のモノを吐いている。大丈夫、まだ平和だ。珠希はそれを一瞥し結界内の事を思案する。
珠希はそう呟き、星の少ない夜空を仰ぎ見た。
無人のファミリーレストランに爆薬を仕掛け、ワイヤーを張って行く日向の目に、裏口近くに一人の少年がうっすらと見えた。
少年は、何も無い路地で何やら走り回っていたが、しばらくして脱力したように肩を落とした。健康そうで、動きに切れがある。
何事か考え込みながら動き回っていた姿は、日向の目にはこの年頃の少年に特有の一人遊びにしか見えなかった。
日向は、少年の立っている場所のあたりを細工してから、もう位置ど少年をなめるように見る。
突然、奇妙な浮遊感。同時に、今まで聞こえていた新宿の雑踏の音が聞こえなくなる。
鞍馬の感覚では、目の前に突然現れた様に見える。一人の男。全身を黒い服で統一しているせいか、身のこなしのせいなのか、どう見ても善人には見えない。
明らかにどこかおかしい言動、だからこそ、うかつに動くわけには行かない、実際、肌に触れるぎりぎりの所にピアノ線のようなものが張られていて、動くにはどうしてもこの線をかき分けるか切るかしなくてはならない。
身近なワイヤーをおもむろに踏みつける。
裏口の奥、つまり店の方で小さい爆発音の後、何かが倒れた音がした。
鞍馬は、動けなかった。自分の力なら、この場を突破できるかもしれなかったが、彼の正義感は、無関係な人を犠牲にする可能性を無視できなかったのだ。
※観察力11を強制力5で行使、12,10,10,3=集中力3消費で成功、現在値4)
さっきまでは、周囲に雑踏があった。人がいた。
もし周囲に見えなくても、まだ夕刻の一番人通りの多い時間帯である。建物の中にも外にも人はいて、何かあればすぐに他の人も集まってくるだろう。
しかし、爆発が起きたにもかかわらず、喫茶店の中に人の姿も悲鳴もうかがえないし、野次馬達も集まってこない。
実際にはそこには誰もいないのではないか?
この男は、辺りにいた人たちを一瞬にしてどこかへやってしまうような、そんな不可解で途方もないことをやってのけることができるのかも知れない。だとしたら、とんでもなく厄介な、得体の知れない相手だ。
いや、この男は、単にそこにいるべき人たちをどうにかしてしまったのではないか? もしかしたら声も出せず助けも呼べない状態にされていて、鞍馬が動けば彼らは爆発に巻き込まれてしまうのだ。しかしさっきの一瞬でそんなことができるものだろうか?
疑念と焦燥が鞍馬の表情に出てしまったのか、男……日向は鞍馬の様子を見て、この上なく残忍で満足げな表情を浮かべた。
また一つ設置されていた手榴弾そのものを破壊する。扉も開ける事もせず、崩壊させて進む。考えてみると、随分と無理矢理な進撃方法だ。結界内だから良いが、現実世界で行ったらテロリストと大差無い。
巧妙に設置している時間が無かったからなのか、手榴弾を見つける事は割と簡単だった。問題の爆弾処理作業は、物質の崩壊によって行っている為、難しい技術は要らない。
次第に、集中力が尽きて行く。しかし、警戒を怠るわけには行かない。
直人は、そのまま裏口を崩壊させ、ゆっくりと警戒しながら外に出た。
立ち上がり、ゆっくりと振り向く。薄笑いを浮かべ、表情には余裕すら伺える。
後ろには、ワイヤーの檻に捕らえられた少年。視線を動かした瞬間に、一瞬焦点がぼやける。思ったより疲れているらしい。
確信と、怒り、そして……なぜか失望の混じった表情。
鞍馬のワイヤーを無視しての行動と、日向の足を封じるように飛び込んだ捻じ曲がった街灯の「馬」。馬は日向に噛み付こうとするが、爆風を逃れるために後ろに飛んでいた日向を捕まえる事は出来なかった。
表で爆風。喫茶店の方だ。その爆風が、計算されたように裏口から吹き出し、鞍馬を直撃し、包み込む。ビルの一階全てを砲塔とした巨大な砲台のように裏口から爆風と瓦礫を吹き出した。
フラッシュバック。
過去が鮮明に蘇える。自分を逃がした父。目の前で爆炎に包まれた。今回もまた、手を出す事すら出来なかった。
瞬時に二人の間が詰まる。といっても、二人とも武術に心得があるわけではない。
双方とも右腕を突き出す。
直人は、触れた物体を触れた部分だけ破壊する事が出来た。彼の体に触れれば、彼の体を崩壊させつつ、貫く事が出来る筈であった。
しかし、直人が失念していたのは、相手か自分の「対」であり、相手もまた自分と同じ力を持った異能者であるという事だった。彼の爆弾能力は異能ではない。普通の人間でも十分に可能な技術である。
それならば……彼の異能力は……。
物体を破壊、再生できる住人の「対」は、生命を破壊、再生できる異能を持ったものだったのだ。
防御もせず。右の拳を相手に叩き込む。相手の右拳が胸に入るが、拳の威力は必要ない。相打ちで壊す事が出来るのだ。
脱力。そんな言葉では言い表わせない強烈な疲労。命そのものを削られているような感覚。意識を失わない様にするのが精一杯であった。
数瞬遅く直人の拳が日向に届くが、その拳が肉体を崩壊させる事はない。そのような力はもう残っていないのだ。
面白くてたまらないという笑みを浮かべた日向は、路地の入り口で見守っていた二人の少女。風音と朱理を睨み付けた。先ほどの街灯の馬は、風音が放ったものだという事も分かっている。
地面に倒れ伏した直人の横をすりぬけ、日向はゆっくりと歩いて行く。
背後は、爆発の余波による土煙がまだ収まってもいない。
わずかに前に出る。光を帯びた右腕で、風音をかばうように。
風音は、しばらく朱理をじっと見詰めてから後ろに下がる。
彼女が何を見たのか、その表情に不安は感じない。
何かを落とした音を背に、日向が走り寄ってくる。手には何も持っていない。
しばらくまっすぐに走ってくるが、急にその進路を変え、路地の橋により道を開ける。
時限閃光弾と、朱理との間に障害は無くなった。
音無き閃光。それは、路地に満ち、朱理の目を焼いて一瞬で消える。
声と共に突き出された右腕が、日向の腹を捉える。
しかし、朱理の意図したようには、光は彼の腹を灼かなかった。
逆に。今まで、軽々と動いていた右腕に脱力感が走る。
日向は余裕を持った口調で、一旦、二人と間合いを取る。
離れたことにより、朱理の灼かれた眼が日向の姿を失う。
下唇を、噛む。
状況は、完全に不利だった。朱理は目が見えず、今のようなまぐれ当たりは期待できない。
一方、風音は予知できても身体がそれほどのスピードで動かないのだ。
信じる筈はない……と思って口に出す。信じてくれない方が都合の良い予知。
日向は怪訝そうな顔で背後を見やる。もとより、重大な事とは思っていない。
しかし、風音は見た。未来が、現在に来た瞬間。
瓦礫の中に動く影があった。
一瞬うずくまって動きを止めたその影は、直後、はじけるように土煙の中から現れた。ほんの3・4歩で、日向の懐に飛び込む。
それは爆風の直撃を受けたはずの鞍馬だった。
スピードを乗せた鞍馬の右ラリアットが日向の腹に食い込んだ。
日向の巨体が、軽く1m程もはじき飛ばされ、地面にたたきつけられた。
鞍馬はすかさず、いつでも追い討ちをかけられる位置に立つ。
日向を見下ろしつつ鞍馬は呟いた。
幽鬼のように立ち上がる。まるで重さを感じないかのような身のこなし。
先ほどのラリアットも、地面への衝撃にもダメージを受けた様子はない。裏の世界で暮らしてきた彼の身につけた体術は、そこそこのプロとなら互角で戦えるほどの洗練を見せている。
路地の中にかくまう様に二人の女性を導く。彼の背丈では、近くにいた場合に二人の女性を守りきる事は難しい。
風音に手を引かれ、朱理は路地裏に入る。おぼろげに見えてきたが、接近戦を行うほど回復したわけではない。
そういうと、瞳を大きく見開く。
日向の左目から粉々になった金のガラスが剥がれ落ちる。その奥から、さらに鮮やかな金色の目。
より強い意志を持って具現させれば、より強い異能を発現できる。今まで具現していた鍵を踏み台に、新たなより強い鍵を発現させたのだ。
何かは解らなくとも、その意味を鞍馬は理解した。
油断無く構えながら、ズボンの後ろポケットからバンダナを取り出す。あの人と同じ……しかし、いつも自分のそばにおいていたもの。
手慣れた手つきで額に巻く。巻いたと同時に、硬化するバンダナ。意志の力をのせられた「鍵」は、意志を挫かない限り、砕く事は出来ない。
一瞬の迷い、一気に間合いを詰め、拳を突き出す。威力よりも命中させるとこを目的とした拳。あたれば生命力の破壊を行える。
攻撃でもって応戦する事が出来ない。消極的な防御。強烈な悪寒は、鞍馬に振れる事を拒否させていた。
大きく後ろに下がり、避ける。
突然響いた、この場の誰にも聞き覚えの無い声。声は、意外に近くから聞こえた。
日向は瞬時に悟り、視覚を切りかえる。そこには制服を着た女子高生の姿。顔色こそ悪いが、表情は勝ち誇った笑みを浮かべている。
倒れ伏している直人に言いかけていた台詞は、最後まで言いきることが出来なかった。概ねの状況を理解した鞍馬がゆっくりと向かってくる。
視力の回復した朱理が、ゆっくりと路地の奥から近づいてくる。その顔に、恐怖の色はない。
突然鞍馬との間合いを詰める日向。前蹴りは腰のあたりだが、身長差から鞍馬の喉を狙う。
両手を十字に組み、蹴りをブロックする。数cm後方に滑り、止まった。
朱理の右腕が直線的に突き出される。光の軌跡が、大振りな蹴りを放った直後の日向の胸元へと伸びる。
届いたのならば、そのまま殺してしまいかねない、パワーの載った拳。
日向の一睨み。またも朱理の腕から光が消え、慣性のみで進むただの物体となる。
その軽い拳を、日向は易々と受け止めた。
再び朱理の腕に、光と力が戻る。折ろうとしていた日向の身体に衝撃が走る。
後半の驚愕の声を上げさせたのは、鞍馬だった。1メートル半にも満たない身長の鞍馬が、自分よりも背の高い朱理の頭を跳び越して蹴りを見舞うとは、誰が想像できるだろうか?
ついこの間体育の授業で覚えたボレーシュートを、跳びながら日向の頭に決める。日向は、身体を走った衝撃で避ける事が出来ない。
そのまま蹴り飛ばされ、数メートルは吹っ飛ばされる。あの威力で頭が吹き飛ばなかったのは、かろうじて同じ方向に跳んだからだ。
すばやい相談。互いに名前も知らなくとも、なすべき事さえ見誤らなければ、それは自動的に組み合い、相乗効果をもたらす。
二人は同時に動き出した。
鞍馬は、立ち上がろうとしていた日向に向かってダッシュを掛ける。その速度はとても小学生とは思えない。瞬発力から行けば、陸上の世界記録に並ぶ。
朱理は立射の姿勢になり、徒手の左腕を眼前に掲げる。虚空の弓を、掴む。
瞳を閉じる。義手の掌の中に、光が凝る。
言葉と同時に、拳を突き出す。当てるつもりはない。その手を取ろうとするのをすばやく察知し、手を引いて体をかわす。
続く日向の攻撃も、すばやい身のこなしで指一本振れさせない。
日向は、にやりと笑みを浮かべた。
これから、二人が行う事は理解した。結果として生まれる一瞬のタイムラグが、日向に余裕を与えてしまう。その余裕を埋める要素は、自分が握っていた。
未来を呼んだ事はある。しかし、直後の未来を呼んだとき……どうなるのかは分からなかった。
瞳を見開く。朱理の右の掌の中に、虚空の弓につがえられた矢が出現する。
放つは一射のみ。絶対に、外さない。
今まさに放たれんとする朱理の手中の矢を。
その未来を。
朱理が名付けている事を、後で知ることになる。その名前で。
言葉。未来の欠片が呼び寄せられる。放たれた後の矢の軌跡。
呼び寄せられた、未来。
現在に刻一刻と浸食され、既定事実として過去に刻まれる未来。
鞍馬が、日向の前から、その健脚によってかき消える。
完全に、照準が確定された、未来。
未来の光の矢。
気合いが充実しきった朱理の手元から。放たれる。
放たれた。
未来の光の矢が。光の矢の未来が。
凝り固まって、確定する。
夜闇を縫って。一筋、また一筋の光が、朱理の手元から、伸びる。
未来の具象化を追いながら。爆弾魔の身体へと。
狂気をはらんだ形相が、叫ぶ。
澄んだ音を立てて、硝子の様に、未来が、砕ける。
そして。現在が。
日向の右の胸元から背中へと。突き抜ける。
口元から泡混じりの血が溢れる。
日向の身体を貫いたままで。光の矢、その過剰な生命エネルギーが、破裂する。
光が、路地裏の暗闇を貫く。天へと、抜ける。
そして、朱理の残心がゆっくりと解ける。
体内を暴れ回るエネルギーの奔流を。いかにして、制したのか。
右腕で胸の傷をかばい、口元から流れ落ちる血泡を左の拳で拭いながら。
日向はまだ、立っていた。
生命力の破裂の中から、かろうじてその身を守ったのだ。[ここよりチェック開始]
朱理の方を睨み付けながら、よろめくようにあとずさる。その後ろに控えている少女がもう一射を放ったという事実は彼の想像を超えていた。
もう一度集中しようとする朱理の背後でふらっと動く気配。振り返る。
倒れかけた風音の身体を、左腕で抱き止める。軽い。
風音の額に浮き出る玉の汗。カモフラージュの為の未来の具現化が、思った以上に彼女の精神をすり減らしていた。
そして、日向の前に立ちふさがるもう一つの影、それは小さかったが、日向の朱理たちへの視線を防ぐ。
油断無く構えているが、打ってこようとはしない。
日向の目はまだ死んでいない。しかし、表情は苦痛に歪み、額から珠のような汗を吹き出している。
鞍馬は、足を踏み出せない。相手は、既に一歩も動けない状態だ。破れた服から伺える傷。出血量からいっても、立っているのが不思議なくらいである。
勝負は明らかについていた。
鞍馬の後方から声をかけたのは、ビルの壁にもたれ、かろうじて立ち上がった直人だった。
よろよろと日向へ、路地の出口へと歩いてくる。瞳の色は、両目とも黒に戻っていた。「鍵」を具現できないほど消耗しているのだ。
そういうと、日向の足元へ小さな金属片を投げる。乾いた音を立て、金属片は日向の足元に転がっていった。
日向は、右胸を抑えていた手を放し、息をつきながら顔をぐいと上げる。その傷は、赤黒い血の塊に覆われて。だが、出血だけはかろうじて止まっている。生命力の再生を連続で行い、自己治癒力をぎりぎりまで促進させたのだ。
ビルの破片は降り注ぐ。
雪のように……花びらのように……。
絶大な破壊力と「死」を伴って。
鞍馬が、朱理の左腕に抱えられたままの風音をかばう。
細かい破片が降りそそぐ。鞍馬の強靭な体にほとんどが防がれるが、小さい体では全てを防ぐ事は出来ない。
降り注ぐ中では、比較的小さな。しかし、拳大の大きな破片。
闇と砂煙の中に、血しぶきが舞う。
血しぶきの向こうに、日向の姿がかき消える。
ふっ
と、瓦礫が。永遠の過去の中に飲み込まれて。消えた。
新宿の夜の喧燥が蘇る。
朱理の右腕が、光を失ってだらりと垂れ下がる。
路地は、小綺麗とはお世辞にもいえないが、瓦礫の一つも無く、喫茶店の裏口も破壊されてはいない。どこから見ても都心のありふれた路地裏である。
そこでたたずむのは5人。日向の姿は既に新宿の雑踏に飲み込まれ。結界の外にいた珠希は突然現れた4人へ迅速に対応する。
跳び離れた鞍馬を横目に、朱理が左腕一本で風音を路面に横たえる。
朱理と珠樹が、簡単ではあるが応急処置をする。結界が解けてしまった以上、朱理の光の腕は治癒の力を発しない。
いわれて初めて気がついたかのように、朱理は立ち上がり、直人の元へ走り寄った。
直人は、日向と話していたときと同じように路地の壁に体を預けている。
初めて会った数時間前とは打って変わって薄汚れ、埃と汗まみれになった顔。
閉じられた目が、ゆっくりと開く。黒い瞳は、先ほどとは変わっていない。いや、日向と対峙していたときの、何かに憑かれた様なぎらついた輝きは拭い去られていた。
そういうと、ゆっくりとであるが、しっかりと歩き始める。朱理のそばをすり抜け、路地の奥、仲間達の方へ向かう。
肩を抑え、出血してはいるが、大丈夫らしい。
そういって、風音の手を取る。動かしたときの痛みに、風音の表情が少し歪む。
日向の信念。それに勝てなければ、直人に勝ち目はない。しかし、今の直人では、感情に流されでもしない限り日向をしのぐ信念は持てない。そう言っているのだ。
そう……素直に言葉を受け止めているような言葉。しかし、その表情には感情を感じる事が出来ない。しかし、瞳の奥の強い意志は感じる事が出来た。
ようやく、口元に笑みが浮かぶ。一つの答えが、出た。
そこに鞍馬をひきずって珠希が近づいてくる。どうも彼女には疲労困憊の少年に肩を貸してやるほどの甲斐甲斐しさはないらしい。
風音と朱理が目を丸くする。
今になってよく見ると、鞍馬は全身頭のてっぺんから足の先までボロボロだった。服はあちこちが無惨に破れ、肌は擦り傷だらけであちこちの皮膚から出血までしている。もっとも、二度もの爆発に耐えきってそれで済んだのは、彼なればこそだ。
そう言いながら彼は、「鍵」となったために唯一無事だった頭のバンダナをはずし、大事なポケットの中に一緒に突っ込んだ。彼の目的は済んだのだ……今日のところは。
鞍馬が立てるのを確認して、珠希は直人に歩み寄った。
まさか、女子高生に「君」呼ばわりされるとも思わず、直人も苦笑する。
何処で引っかけたのだろうか、膝の頭にうっすらと切り傷が出来ている。珠希はそれを自慢げに見せびらかし、微笑む。直人も思わずそれにつられそうになるが、そこで顔が引き締まる。そう、忘れていたが彼女が住人なのか狩人なのかはいまだ不明確なままなのだ。
そのやりとりに、朱理がかすかに笑みを浮かべる。
路地裏から月影までは、それほどの距離はない。
月影では、まだやる事がたくさんあるのだ。自分の想いを探している暇など、今の直人にはなかった。
月影に、住人達が集まってくる。自分が統治者の器ではない事は、重々承知している。だから、場所を用意する。体を動かす。
迎える場所を作る事、集まる場所を作る事。その事が、災厄に対するささやかな抵抗である……と信じて。
喫茶、月影の扉が、キィ、と音を立てて開いた。
了
終末の住人達が出会い、対との結界内での戦闘を行っています。
結界、鍵、異能での戦闘シーンなど、判定を交えての描写を行ってみました。
1999(2nd)/05/28(Fri)、夕方から夜にかけての出来事。