走る、走る。
景色が風になる。
鞍馬は今日も、見知らぬ町を走っていた。
他者の追随できない疾走。その中でも周囲に気を配りながら走れるのは、おそらく彼だけだ。
ただ走りたいがためにいつも彷徨うわけではない。しかし彼の好奇心が彼を駆り立てるとき、彼の身体には水を得た魚のようにエネルギーが満ち、かの地へと彼を運ぶ。それは、景色であったり、土地であったり、物であったり。
その日もとある地へ足を運んだ帰り途で、鞍馬は地図で確かめた近道をたどって、どこかの商店街を走り抜けようとしていた。
鞍馬は、ふと足を止めた。
弱い、弱い結界。そばを通らなければ、それが一つの通りを覆うほどに大きくなければ、もしかしたら気付かなかったかも知れない。
見過ごし、立ち去ることは容易だ。それが証拠に、道行く人波の誰も気付いた様子はない。同じ顔をして自分も家路をたどれば、それでいいだろう。
しかし……束の間の逡巡の後。
鞍馬は物陰に寄り、周囲の人目を窺ってから結界への侵入を試みた。
不意に町の雑踏が消えた。
物音一つしない世界。
変わらないたたずまいの商店街……そこから人の姿を取り去るだけで、これほど変わるものなのか。
鞍馬はゆっくりと歩き出した。
おそらく、この辺りが結界の端に当たるだろう。そして、ある方向には実際に、文字通り『壁』のごとく結界の限界が存在するのを感じる。ということは、……鞍馬は、迷わず結界の中心とおぼしき方向へ足を向けた。
鞍馬はふと身構えた。動くもののないはずの世界に、とぎれとぎれに響く音。その音は固く、時々ぎこちなくリズムを乱しながら、ゆっくりとどこかから近づいてくる。
振り返った鞍馬の視界に、正装の男の姿が現れた。
……いや……。
鞍馬に向き直ろうと身じろぎすると、男は不自然なきしみをあげた。
それは、タキシードを身に着けた人形だった。
動かぬ唇から、異様に低く誰何の声が漏れた。
人形が足取りを速めて鞍馬に迫った。しかし見切れない動きではない。鞍馬は楽々身をかわし、人形に道を空けた。
その時、鞍馬の背後のショーウィンドウが大きな音をあげて砕けた。そこは洋品店だった。陳列されていた、流行りの女物の服をまとったマネキンが、背後から鞍馬に襲いかかった。
マネキンの手が鞍馬の細い首筋をつかみ、恐ろしい力で締め上げる。そのまま鞍馬は宙に吊り上げられた。鞍馬の足が路面を離れるが、マネキンはびくとも姿勢を崩さない。
前からは、タキシード姿の人形が、向きを変えて迫っていた。
足を振り上げ、その反動で後ろのマネキンの腹に蹴りを入れる。そのはずみを利用して彼は、喉を締めるマネキンの両手首をつかみ、左右に引きはがした。
足場を取り戻し、鞍馬はそのまま力任せに両手を振り下ろした。マネキンの巨体が背負い投げよろしく軽々と宙を舞い、人形めがけて叩きつけられる。
激突した部分を粉々に砕かれながら、2対の人形は混然となってその場に崩れ落ち、動かなくなった。それを確認もせず、鞍馬は走り出していた。目指すは、結界の中心。
左右の店並から、続々と人形達が姿を現す。それを一撃ずつ殴りつけて動きを止めながら走るが、商店街中のマネキンを集めた数は、思いのほか多い。
鞍馬を狙う人形達が途切れる背後に、どこかたたずまいのおかしい一軒の店舗。そこは、おそらくは結界の中心と一致する。
行かせまいとする人形の手が、鞍馬の肩に、足に、腕にかかる。鞍馬を抑えつけんとする圧倒的な数の力に、鞍馬の身体はまとわりつかれ押しつぶされる。
渾身の一撃が身体の上の人形群に炸裂し、人形達をはね飛ばした。
なおも伸びる手をかわし、鞍馬は大きく跳躍した。幾体もの人形を飛び越え、着地地点のマネキンを蹴り飛ばして、店舗の前に一足飛びに着地する。
鞍馬の記憶が正しければ、結界に入る前はシャッターが閉まっていたような気がする。しかし今、シャッターは開いていた。
中へ踏み込もうとして、鞍馬は違和感に気付いて後ろを振り向いた。人形達は、鞍馬を取り囲みながらも、遠巻きにしてなぜか近づいてこなかった。
自己矛盾。自らをも規定してしまうような。
まるで、望みが二つあるかのような。
鞍馬は、人形達を残し、中へ踏み込んだ。
古びた内装。がらんとした陳列棚のところどころに、時代遅れの商品が並ぶ。
そろそろと、鞍馬は踏み込んでいく。張り付いたほこり。湿った空気。結界が張られる前からこの状態だったとしたら、この店はどれほどの間このままだったのだろうか?
かすかな物音。その方向には、レジ、そして奥へ続く扉。
鞍馬は扉に近づき……ふと、扉をノックした。
沈黙が動く気配。
鞍馬は扉を開けてそっと中へ入った。
正面の椅子から、うつろな眼窩が彼を迎える。はっとして見直すと、そこにいるのは白骨化した死体だった。
短い廊下を経て、そこはすぐ居間につながっていた。居間の端の椅子には白骨死体、そして居間の脇の方から、一人の男が鞍馬に声をかけた。
男は痩せこけ、随分と衰弱しているようだった。しかしその割りには、声も瞳の光も、穏やかで満たされて落ち着いていた。
鞍馬を初めて見たときに一瞬強い意思の輝きが瞳の中に見えたようだったが、実際には比較的若いと思われる年齢にふさわしい力を感じさせただけで、すぐにそれも消えてしまった。
男は立ち上がり、白骨死体に歩み寄りながら鞍馬に語りかけた。
男は、自嘲気味に笑った。……鞍馬には、泣いているように見えたのだが。
男は、死体のそばに寄り添うように座った。
かすれた声。そんな声でしか、答えられなかった。
男は、満足げに頷いた。
安堵する彼が望むものが何か、鞍馬は、わかっていたが何も言えなかった。
鞍馬は店の外に出た。通りには、既に人形達の姿はなかった。
元の世界の感覚を呼び込み、結界を抜ける。
目の前に、再び雑踏が甦った。繰り返される日常。振り返ると、今までいた店には、ここではやはりシャッターが下ろされたままだった。目の前の光景と、隔絶するかのように。
一時だけそれを見上げ……鞍馬は再び走り出した。
約1カ月後、店主の不在を不審に思って店内を捜索していた商店街の住民と警察の目の前に、突如2人分の死体が出現して彼らを驚かせることになるのだが、それは鞍馬の知らない話である。
終)
岡崎鞍馬の放浪中の、外伝的な1エピソードです。
PC以外にも存在する終末の住人・狩人に、焦点を当ててみました。