それは三月、春休みの唐突な呼び出しだった。学校帰りに突然鳴った、発信者不明のコール。
この時期、花見客達で賑わう新宿御苑も、さすがに閉園時間をとうに過ぎた今となっては閑散としていた。私が10時きっかりに新宿御苑入り口に行くと、券売所の前に立っていた薄汚れたミリタリーっぽいジャケットを着た男が此方に近づいてきた。
此処に来ることをためらいはしなかった。私は大概の問題は回避できる自信があったし、なにより羽村一美のことが気がかりだったからだ。しかしそれでも目の前の男には緊張感を抱いた、「普通じゃない」。その目つき、身のこなし、一分の隙も感じられない。いったいどのような人生を歩むとあんな顔になるのだろう。けれど、それは私も同じだ。相手のペースに飲まれるわけにもいかない。
以前電話で彼女が恋人のことを少しだけ話してくれたとき、大阪の人だと言っていた。私は目の前の男の関西弁から、このことを思い出し、カマをかけてみる。
そう言って私は余裕の笑みを浮かべる。交渉は此方に有利な条件のようだ。
私は一瞬間抜けな声を上げる。まさかあの羽村一美に限って行方不明などという事になるとは思わなかったからだ。しかし突然連絡が取れなくなったことといい、なにかの事件に巻き込まれたという可能性は多分にある。
大晦日、私の頭の中で何か大きなパズルの1ピースがピタリとはまる。彼女の消失は、時間のループと関係あるのではないかと。時間のループを認識しているのは私だけではない、そしてその認識している人達の誰もがなにかしらのアクシデントに遭遇している。これはきっととても大きな問題なのだ、そして目の前の男もそれに遭遇した者の一人ということなのだろう。
そう言い残すと、その男は背を向けてこの場を去ろうとした。あんなにも隙のない男がまるで今は弱々しく感じる。
それに反応するように男は振り向く、再び発せられる警戒心と同時に耳に届き始めた、微かな、音。耳障りで不快なその音は蠅の羽音に他ならない、それも無数の。しかし私の周りには蠅など一匹も飛んでいるようには見えなかった。
見えない蠅、それがこの人の能力なのだろう。
私はパーカーのポケットに忍ばせた剃刀に、ポケットの外から手を当てる。
私がそう悪態をつくと、さらに羽音が大きくなっていく、既に私の周りには50匹は蠅がいるのではないかという程の、ノイズ。しかしここで引き下がってこの事件に一緒に立ち向かえそうな仲間をみすみす逃がすわけにも行かない。そしてひいてはそれは消えた一美のためにもなる。
だから、私は、蠅達の首を「全て」斬り落とす。私の能力、『首使い』で……
やっぱり自己紹介はコミュニケーションの第一歩だろう。私は、険悪な雰囲気を薄めようと、思いっきり笑って見せた。
人間関係なんてどう転ぶかわからないものだ。さっきまで殺し合いも厭わないと言う雰囲気だったこの男、名前は雨下津統和というらしい。私は今、彼と一緒にローソンのおにぎり片手に、夜桜の下で花見としゃれ込んでいる。
春になったとはいえ、深夜11時過ぎの公園はとても肌寒い。会話の最中も私はひっきりなしに肌をさすって暖まろうとしたが、結局最後には雨下津統和のジャケットを借りてしまった(統和に言わせれば奪ったと言うことになるのかもしれない)。
私は羽村一美との会話を思い出しながら彼に話し、彼もまた彼女との生活の話をする。
彼、統和は、羽村一美のことを、まるで神聖な存在のように話す。実際彼にとってはそれだけ特別な存在なのだろう。私は誰かをそれだけ特別視できる彼が少し羨ましくもある。
不意に話題を「事件」の方へ持っていく統和。
そう言って何か考え込む。それまでの話からすると彼はとても人には言えないようなことをいくつもやってきた犯罪者らしいのだが、その反面非常に理知的なようだ。
良くも悪くも現代っ子な私は、そんな彼の過去について深く聞こうとは思わないし、また聞きたいとも思わない。
彼はこの日、別れ際にそんな風に言った。悪ぶっているわけではないということは、彼の目からもわかる。しかし、そんなことは私にとって些細な問題だ。犯罪者だろうがなんだろうが、気が合えば友達になれる。
私は笑いながらそう言うと、そのままその場を立ち去った。
桜居珠希と雨下津統和が、友人関係を築くに至るまでのエピソード。
二回目の1999年、3月21日(月)