葛城水稚(かつらぎ・みずち) :
新宿の情報屋。外見は二十歳前後なのだが、20年あまり
も前から年老いていないと言われる謎の女性。月島直人(つきしま・なおと) :
新宿歌舞伎町にある喫茶店・月影のマスター。物体操者。
ドアベルの音に、作業の手を止めて応対する。現在、ウェイトレスの更雲優は休憩で奥に引っ込んでいる。
なれなれしく話し掛けてきた客は、年の頃20代前半の美人。直人より年下に見える。
直人の始めてみる顔で、当然、”直ちゃん”などと呼ばれる間柄ではない。
可笑しそうに、くすりと笑みをこぼす。
すぐに、いつもの調子を取り戻して営業スマイルを取り戻す。
水稚にすれば、昔に立ち寄ったときの、小さかった直人の姿の方が印象が強く、それが、今目の前でかしこまっている喫茶店のマスターになったかと思うと、おかしくて仕方が無いらしい。
普通、「コーヒー」と注文されて、「何にするか?」とは聞かない。そこが、月影の売りであり、直人の自慢する所であった。
わずかに、直人のと記憶を刺激し、覚醒の瞬間が蘇る。
しかし、今更動揺するような事件ではない。
もう、完全に自分の中で消化した記憶……思いでである。
思い出しながら分量の調節をする。直人特性のブレンドとは違う、苦みの強めの味。
再現させようとした事もあったが、それ以後作っていない。
豆の選別。煎り方、砕き方。そして入れるときの温度まで、コーヒーの味に影響する。
にこやかな笑みを浮かべて、静かに待つ水稚。彼女の中の、幼い時代の直人の姿が重なる。
しかし、その場に彼女はいなかった。それより前に、”死んで”しまったから。
この場所に、あしげく通えない理由があったから……。
ガラス製のサイフォン。以前と同じ物を、新宿中探し回って買ってきた。一度、水が上に上がり、火を止めると色が着いて下に降りてくる。
直人の好きな情景の一つ。
そして、一口……
固唾を飲んで……というのが正解。
父親の背中を追いかけている彼にとって、父の味を知っている人間の評価は、一つの試験のようなものである。
自分を庇って死んだときから、追い越せない背中を追い続ける直人。
目の前の背中は、追えば追うほど遠ざかっていくように見えた。
合格……と、かってに判断する。彼女の笑みを、正面から見る事が出来ずに、目を伏せる。
言えるはずが無いし、言うつもりもない。
ただの友達。
それで良い……
ゆっくりと味わいながら、コーヒーを楽しむ……
だが、すぐにコーヒーも飲み終る。
冷めるまで居るつもりはない。
この場所に、余り長居は出来ない。
見守る人二人が集う、この場所に、いつか、自分が戻れる日は来るのだろうか……。
ふ……と、脳裏をかすめた想いは、ドアベルの音にかき消された。
新宿の情報屋として、第二の人生を歩み出した水稚が、過去の思い出の残る月影に再び現れる。
しかし、その場を愛するがゆえに、彼女は全てを心の中に封じ込めた……。