1999年12月31日。いわゆるところの大晦日である。
普通は、大掃除だのおせちの用意だのに明け暮れるべき日であるのだが、ここ、不夜城と化した新宿は、やはりざらざらと人込みの中にある。
その、一角。
あまり人の通らない通りに面した。
あまり流行ってはいない……だろう喫茶店。
控えめな看板には、月影、とある。
それでも、この大晦日、終夜営業の札がドアのノブにひっかかっている。
時刻は、10時を既に半分廻っている。
一時間半だけ残った、『今年』。
否……………
ふいと、そう考えてから苦笑して、ノブに手をかける。
声と同時に扉が開く。
マスターが、顔を上げて……
……その表情が、営業スマイルから苦笑へと変わる。
今年……特に後半。
既に顔見知りになった青年が笑う。
渋い顔のまま、言葉を紡ぐ。
カウンター席に座り込んで、苦笑した譲の前に。
えらく威勢の良い声と一緒に、水を湛えたグラスが置かれる。
この喫茶店に入り浸る……と言っても、主に軍資金の問題からさほどの回数ではなかったのだが……ようになってから、すっかり顔馴染になったウェイトレスの高校生が、えらい勢いでグラスをテーブルに置く。
何とは、なく。
珠希と、年末のバイトが結びつかなかった譲である。
少し困ったように笑いつつ、譲るは思う。
二人のやりとりが一通り済んだのを確認すると、直人が少し身を乗り出した。
手慣れた様子で、マスターがコーヒーミルをまわす。傍らでもう一人、ウェイトレスらしき女性が、心得た様子で珈琲カップを用意する。
周囲を、見やる。
マスターと同じ年頃の男性。
そして、二人のウェイトレス。
その、全てが。
苦笑。自分の立場を思うと、それしか出来ない。
視線が……月影のマスターのそれとかちあった。
す、と、タイミング良く置かれた珈琲を一口飲んで。
視線が、譲に向かう。
静かに。
好奇心。明るい黄色と緑のくねるリボンのような。
そこには疑問符はあっても、負の感情は無い。
短く応えて、譲はまた珈琲を含む。
舌に、苦味が残った。
長身を少し屈めるようにして、言う。どこか透き通るような青い波が、彼の両側から流れてくる。
打算抜きの、心配。
譲の口元が、ふと、ほころぶ。
穏やかな声に、珠希が細い眉を顰める。
主語も目的語もすっ飛ばした言葉だが、意味としては明白である。
ふうん、と、興味深そうに相づちを打ったのは、どうやらマスターと友人らしい男性である。
直人は、小さくため息を吐いた。
住人が、ある程度積極的に関わった記憶は、普通人にも残る。当然ながら、狩人達にも残る。
しかし、繰り返される1999年についての疑問は、彼等には、無い。
一瞬の遅滞も無く、応えが返る。
苦笑は、変わらない。
ぱん、と弾くように言ってから、しかし彼女はそこで、考え込むような表情になる。
にこにこと笑って言ってのける。
マスターが静かに額を抑えた。
えらく真面目に、譲は受けた。
おいおい、ってな答えである。
鞄から、厚手のノートを引っ張り出して、直人に差し出す。
言われるまま、直人は最後のページをめくる。
かしんとした印象の文字で、確かに住所が書いてある。
難しい顔のまま、直人が黙り込んだ。
苦笑。苦味の強い。
かちり、と、小さな音がした。
どうやら、壁にかけてある時計の針が、11時を回った際の音のようだった。
何故喫茶店で年越しそばなのだろう、と、咄嗟に思って…ああそんなもんか、と、次の瞬間納得する。
大きな鍋に水を張って、優が火にかける。
明るい、けれどもそれ以上の追求を拒む、声。
直人は口をつぐむ。
1999年。
譲の妹は、入退院を繰り返すのだという。
一年かけて元気になり、そして家に戻り……
…………そしてまた、1999年の始めの状態に戻るのだ、と。
一切の記憶はない、らしい。
そしてまた、譲からもその記憶は消えるらしい。
それでも尚。知ってしまったことは、残る………
ふうわりと笑う。
それに笑みを返して。
ふ、と。
譲の表情がこわばる。
意識野の端を、かすめるように流れる……鋭い蒼の色。
鋭い悲しみの色。
対の相手の悲しみ。結界を張っていない今でも、やはりこれだけ強い感情だと感知できるようである。
直人が、不審そうに譲を見やる。譲の能力については、既に知らせてあるだけに……
げ、と、野菜を切っていた珠希が小さな悲鳴を上げる。
そういえば……と、直人と翔が指を折る。
自分達だけが、時の流れに対し、きちんと反応している。
その……奇妙なずれ。
実際にそれを体験している人間だけが示し得る、説得力である。
何度も何度も繰り返し、巻き戻しては再生されるテープのような一年。そのテープに傷を残し、歪みを生じさせる者達が……住人。
そして、住人を消滅させるために、対として生じる存在が……狩人。
いつまで、この繰り返しが続くのか……………
明るい声が、淀みかけた空気を破った。
時折、それでも譲の目は壁の掛け時計に向かう。
時計の秒針は、ひどく綺麗に弧を描いている。
『今年』は、あと半時間を切っている。
誉め言葉に、優が少し照れたような笑みを浮かべる。
ぼんやりと、淡い紅の光。
あまりに、普通の…………
自分から跳ね飛ぶ、どす黒い恐怖の稲光。
気がつくのは、そういえば自分のみ……と。
気が付いて、譲は苦笑する。
時計はやはり、滑らかに動いている。
時もやはり、滑らかに流れている。
彼らは、残る。
自分は、戻る。
……その、奇妙さ。
大丈夫です、と、言いかけて、譲は苦笑した。
自分が行ったこと。
自分が頑張ったこと。
自分が残してきたこと。
それら全てが消えること。
時計の針は、やはり滑らかに動く。
途絶えると、思う自体嘘であるように、滑らかに。
滑らかに。
そして『今年』はどこかへと消える。
一礼して、譲は箸を持ち直す。
『今年』は既に、あと15分しか残らない………
実際、蕎麦は美味しかった。
箸を揃えて。
あと数分の、時計に目をやり。
視線を戻して……月影のマスターが、やはり時計を見ていたらしいことに気付く。
結構、切実ではある。
志望校に受からない限り、譲は東京に来ることはないのだから。
意識のどこかに、やはり対の相手の心を見ながら。
未来が、途切れている。
未来が………見えない。
恐怖もある、不安もある。
けれどもそれ以上に、鈍痛に似た哀しみ。
残るものも、かなしいのだ……と………
秒針が、回る。
言い終わって、笑った顔のまま。
譲は、ふつり、と消えた。
そして。
不夜城のざわめきが、今までに増して高まる。
月影に残ったのは、四人。
箸が揃えられた、丼はそのまま残っている。
座っていた椅子に、けれども温みは残っていない。
ぽつり、と。
3度目の、1999年を迎える声。
同時にそれは、消えてしまう2度目の1999年を弔う声…………
珠希は、ぐっと右手を握り締めた。
3度目の1999年が始まる。
2回目の1999年の年末から、3回目の1999年のはじめ
去る者と、残る者達と。
厳然として、その事実は存在しつづけます。
その事実があまりにもはっきりと見えてしまう日の風景です。