人気のない古い木造の駅舎。
改札前に据えられた古びた柱時計の時を刻む音だけが、小さく、しかし確かな音を立てて響きわたる。開け放した入口から、数歩でプラットフォームに出られる改札口へと、涼やかな風が流れていく。
今年の夏は暑く、駅舎の外は歩むことすら億劫になるような熱気と湿気に覆われているというのに。光と影が強烈なコントラストをなす広い待合室の中は、まるで時が止まった森の中のようにひっそりと、涼気と静けさの中に守られていた。
壁際に並べられた木のベンチに腰掛け、鞍馬はただぼんやりとそれらの風景を眺めていた。
次第に身体が眠気に融けていく。
柱時計の音を聞き続けながら、鞍馬の意識はいつの間にか眠りの中に入っていった。
話し声の気配に、目を開ける。
そこには、誰もいない。
再び瞼を閉じて眠りに落ちていることを、鞍馬自身も気付いてはいない。
鞍馬は飛び起きた。
信じられない言葉を聞いたような気がして。
そこには、やっぱり誰もいない。
柱時計の営む音だけが、木造の駅舎にこだまして。
いつの間にか、随分長い時間寝ていたようだ。赤みをわずかに帯びた陽光が斜めに射し込み、駅舎の床の三和土を少しずつ暖めている。
外へ走り出ようとして、ふと鞍馬は駅舎の中へ振り向いた。
くすんだ色の染みついた、木造の駅舎。
かすかに宙に舞う塵を、照らす陽光。
古びた柱時計。
言い様のない不安が鞍馬の胸を締め付けて。
しかし、目の前の情景は限りなくやさしくて、暖かくて、懐かしくて。
何に不安を覚えるのか、鞍馬は夢の言葉を思い出そうとしたが……
既に鞍馬は、どんな夢を見ていたのかすら思い出すことはできなかった。
わずかな間の後、鞍馬は、振り切るように走り出した。
視界が風とともに流れ始め。時が止まったような風情の古い木造の駅舎は、遥か後方に去っていった。
柱時計の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
終)
二度目の1999年の夏休み、長い旅に出た鞍馬の旅先での一情景です。
ごんべ自身がかつて行ったことのある、夏の午後の山寺駅(現・JR東日本、山形県)の情景を思い出しながら書きました。
もう最近では、こんな年月の暖かみを感じさせる駅舎は少なくなっているかも知れません。鞍馬はそこで、何かに出会い、何かを告げられたのでしょう…………たとえ彼自身は忘れてしまったとしても。
1999(2nd)年7月末。信州のとある小さな駅にて。