たとえば、空気を大きく揺るがせる風のように。
きいん、と、その始まりを彼は、可聴域外の音として捉える。
結界、と。
名を知ったのは、さほどの昔ではない。
そこに伴う感情は、月影などで出会った人々のそれとは、かなり違う。
若い。
未熟さも無責任さもそれゆえの鋭さも含めて。
鋭く光る、刃のような憎しみ。そしてうっすらと同期して流れる自信。
そして…恐らくは他者の、軽蔑?
帝都。昼。
アスファルトに跳ね返る陽射しのせいか、初夏だというのに体感気温はやたらと高い。
歯に軋むような、薄黄色い…怒りの波動。
それに絡み付く、深群青色の、やはり怒りの波動。
二つの波動は、互いに組み合わさるでもなく、ただきしきしと流れてゆく。
偶然休講が重なっての半日休み。レポートを書くための資料として本を借りたはいいが、用語が英語でわからない。さあでは用語辞典を買いに行こう…という、一応万人向けの言い訳と共に本屋に向っていた譲は、あっさりと進路を変更した。
結界を張るもの。そして、二人分の感情。
ということは。
つきん、と、頭の右の奥が痛む。細い針で縫うように。
陸橋の下、と、方向を見定める前に。
激痛。視界の斜め前方、頭蓋の内側に釘で大きく引き裂くような。
慌てて感情を遮断した、と同時に。
ふっと、結界が消えるのがわかる。そして……
火花のような痛み。譲を引きずり込むような……
…………それでいて、どこかしら、負けを悟ってしまったような……
己が望みの、今は叶わぬを知ってしまった者の、それは感情。
譲は無言で足を速めた。
足音。
確実にこちらに向ってくる足音に、小次郎ははっとした。
敵意、害意、その他負の感情はそこには無い。が、それを感じ取るだけのゆとりは、現在の彼には無い。
動く右手で上半身を支え、起こそうとした…時に。
りいん、と音が響いた。
円く広がる、薄い膜。青銀の色は一瞬だが彼を透過し、そして周囲から彼を隔絶する。
向こうから来る、もう一人を除いて。
小次郎と大して背格好は変わらない。一見してわかる穏やかな顔立ち。視線は自分の方に向っている。
敵意と不審をはっきりと視線に込めて、小次郎が相手を睨みつける。
視線の先で、彼よりも数歳上の青年は、笑った。
おやおや、と、正直譲としては思ったものだ。
顔立ちのきちんと整った、恐らく高校生男子。痛みの波動を撒き散らしながら、それでも上半身を起こした……のには、それなりに感服したものだが。
善人ばかりがいるわけではないのは、この帝都でも他でも、同じなのだろうけれども。
鋭いほどの、敵意と、誰何の念。
嘆息交じりの声は、小次郎には勿論届かない。
敵意の、薄緑色の波動。それをそっと『押す』。波動を打ち消す方向に、軽く感情を打ちこむ。
そして、放つ。安堵と、当座の信頼。
すう、と、少年の表情が緩む。
未だ狩人としては未熟である彼にとっては、この言葉はある誤解へと向かいかねない言葉である。
侠児を仇と思う一人なのか、と、考えかけた一瞬。
タイミングは上々。
無意識のうちに、身を引いたのが悪かった。がく、と、体重をかけていた右の手が崩れる。同時に体中が悲鳴を上げる。
軋むような痛みを実感する前に、手が伸びた。
相手に向う筈の敵意と怒り、そして心を読まれる可能性への羞恥や苛立ち。
それが、すう、と……
溶ける。
唐突な問いに、思わず答える。相手はまた笑った。
さてどうしよう、と、譲は内心腕組みをする。彼自身が既に、現在を1999年と見なしている。風音の言葉を信じてはいるものの、言わば感覚の上で、今を1999年としか見ることが出来ないのだ。
丁度、今日の次に明日が来ない可能性も世の中にはあると知っていても、寝るときにはごく当たり前に目覚ましをかけるように。
穏やかな、笑み。
踏みつけられた痛みは……少なくとも腕からは抜けたようだった。
ポケットから五つの鈴を取りだし、一つ振る。りいん、と音は何故か青銀の壁から鈴を目掛けて走り、すう、と中心へと収束した。
喧騒。そして、日の光。
帰る、と言って良いものかどうか。
一瞬のためらい、そして深いところでくすぶるやり切れなさ。
君呼ばわりされる筋合いは無い……と、一瞬言いかけて、流石に止める。むっとしないではないが、助けてもらったのは確かである。
ほぼ同じ高さからの視線。穏やかな筈のそれに、小次郎は一瞬たじろいだ。
にこにことした表情から、一閃。
つい、と指を伸ばす。相手の眉間へと。
右手を握り締める。その様を譲は苦笑しながら眺めていたが。
さらりと。
その一言で、小次郎の怒気が行き場を失う。
その一瞬を突いて、いともあっけなくそう言うと、譲はそのまま踵を返した。
3rd.1999 エピソード070『結界戦闘』の直後。
互いに狩人ではあるが、能力も立場も異なる二人、八島小次郎と青天目譲の出会いの光景です。